しみ





 彼が眠ったのを確認して、鉛のような体を起こした。頭もひどく重かった。彼に触れられた頬が熱かった。


 視界の端にわたしの荷物が置いてあるのが見える。段ボールと彼に選んでもらったオレンジ色のキャリー。まるでいらないものかのようにはじっこの方に寄せられている。きっとこうやって彼のことを思い出とともに忘れていくんだ。彼も同じように、わたしのことを、きっと。


 けれど、こうなったのはわたしのせいだから。彼がわたしを忘れてもなにも悪くなんかない。むしろ、わたしのことなんか忘れてしあわせになってほしいと思う。……でも、ほんとうは一緒にしあわせになりたかった。わがままだね。


 ベッドを見下ろすと、小さな寝息を立てて眠る彼。最後なのに、こんなに安心した顔して寝ちゃってる。かわいいなあ。もうこれからは見ることができないんだね。しあわせだったなあ……、じんわりと思う。きっと落ちないしみのように、今日のこと、彼のこと、彼との思い出は、心のどこかに居座り続けるのだろう。


 彼と夢とを天秤にかけても、どちらかに傾くことはなかった。どっちもほしかった。それが本心だった。けれど、わたしひとりのことじゃないから、わたしだけがそう思っていてもだめなんだ。彼の気持ちを推し量ろうとせずに、素直に言えていたら……。ううん、もうわたしは前だけを見なくちゃ。彼が応援してくれたから、前に進むんだ。


 まだ起きる気配のない彼のまあるいおでこにひとつ、キスを落とした。彼の目じりに残る涙に気づかないふりをして。


 彼に借りていた服を脱いでたたんでベッドの下に置き、前日から準備していた自分の服を着て、キャリーを持って玄関へ向かう。段ボールにまとめたものはあとで送ってもらうことになっている。残りの荷物は……、あとこれだけだ。


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