爪先からムスク、指先からフィトンチッド
さっきまで明るくはしゃいでいた芳香がだんだんと暗く沈んでいく。
「芳香。野島さんのことを気にしているのか?」
「え、っと、少しだけ」
「心配ない。野島さんの件は片付いた」
「えっ?」
「彼女にははっきり断っているし、理解もしてくれたようだからもう心配しないで」
「ほんとに?」
「ん」
薫樹は芳香の手を取り、自分の指先を彼女の鼻先へ持っていく。
「いい香り……」
ハーブ園での香りも落ち着くが薫樹の指先を嗅ぐと更に芳香はリラックスする。
「この香りはどうやら君にしか感じられないらしい」
「え? うそ! こんなにいい匂いなのに?」
「うん。調べたがやはり香りの成分はないようだよ」
「えー」
芳香は信じられないという表情で薫樹の指先を嗅いでいる。
「フフ。つまりこの指先は君だけのものだ」
「あ、わ、私だけ……」
「うん。他に誰が現れても僕は揺れたりしない」
愛の告白と誓いをハーブの優しい香りに包まれながら聞く。
うっとりと酔いしれていると薫樹は耳元で囁いた。
「今夜は、君の香りを堪能させて」
芳香は甘い花の香りを感じた。

19 デート・4
薫樹のマンションに帰宅する。
シンプルで生活感のないモデルルームのようだった薫樹の部屋に少しずつ、色と香りが加わっている。
「疲れた?」
「いえ、楽しかったです」
「よかった。ゆっくり風呂に入るといいよ」
「さっき買った入浴剤入れてもいいですか?」
「いいよ」
「あ、あの。一緒に入るんですか?」
「うーん。僕は後にするよ。少しやることがあるから」
「そうですか、じゃお先に」
芳香は少し残念な気がしたが、今夜こそ、結ばれるかもしれないと思い念入りに身体を洗おうといそいそと浴室に入っていった。

「よし。準備するか」
薫樹は芳香が入浴している間に寝室を調整することにした。
室温も湿度もまずまずなのでエアコンを使う必要はなさそうだ。最近、芳香が持ってきた観葉植物のアレカヤシのおかげか湿度が安定し乾燥を免れている。細長い羽のような葉が噴水のように茂りヤシ科であるアレカヤシは空気を清浄する上に南国ムードを醸し出している。
「今日のハーブ園はなかなか良かったな」
アレカヤシの葉をスッと撫でハーブに囲まれた芳香を思い出す。
シーツはすでに新しいものに変えているので少し整えるだけで良い。

寝室の入り口の片隅に調合したルームフレグランスをセットすることにする。今回はリードディフューザーにしてみた。
小さな青い遮光瓶の蓋を開け、木のスティックを数本差して置いておく。
芳香が風呂から上がり、そして薫樹が入浴後に戻るころにちょうど香りが満ちているはずだ。
「さて狙い通りにいくだろうか」
かすかに感じられる立ち上る香りを確認し、ダイニングに向かった。
ちょうど芳香が出てきたようだ。
「薫樹さん、お先でした」
「ん、じゃ僕も入ってくるから、そのハーブティーでも飲んだらいい」
「あ、ありがとうございます」

少しだけ冷やされたローズヒップティーだ。透き通った赤い色が美しい。
「今夜……こそ」
芳香の心臓が早鐘を打つ。ローズヒップの酸味が少しだけ冷静さを促すが、一瞬でしかない。
自分のために淹れてくれたローズヒップティーを噛みしめるようにゆっくりと大事に飲み干し、芳香は寝室へ向かった。

20 香りに満ち満ちて

ほんのりと薄暗い寝室に入る。特に何をするわけでもなく広いベッドに潜り込んだ。
シーツは白く清潔で洗濯したての日向の香りがする。掛け布団は薄くフラットなのに手触りがよく温かい。
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