ガーベラをかざして
別離
あのパーティーが終わってから、津江崎家では騒ぎが起きた。
と言っても「笹ヶ谷さんの発言に深く傷ついた、もう今までのような関係は終わりにさせてもらう」とかではない。
京さんは留学先で現地の男性と恋に落ち、事実婚までしているという。その報告のために、そして本当に結婚するために帰国したのだと。

「向こうのご両親に挨拶はすんでるの。了承はもらってるわ。あとはお父様とお母様の返事だけよーーえ? いいえ、妊娠はしてないわ。要らないって二人で話し合ったもの」

あっけらかんと話す京さんに、津江崎さんたちは何も言えなかった。津江崎の奥様なんて危うく気を失いかけたーーと清隆さんは話してくれた。

「昔から好奇心旺盛というか、アクティブな子だったからね…」

そう話す清隆さんはやつれているような、疲れているような笑顔をしていた。津江崎の旦那様に愚痴を聞かされていたのかもしれない。私は彼女の、あの屈託のない笑顔を思い返していた。
なるほど、ユニークな人というか、自分の人生を存分に謳歌している人なんだ。
…私とは大違いだ。

いつまでもウジウジして情けない。覚悟を決めたんじゃなかったのか。騙すなら一生かけて騙し通せーーーそう自分を何度も叱って持ち直そうとした。母の写真と何度も向き合った。それでもあの時感じた罪悪感は、気を抜くとすぐにやってくる。
今日はそれを茶道の先生にまで指摘されてしまった。深い部分までバレたのではなくて、何かあったのだとわかってしまうくらいだったけど。

「なんだか落ち込んでいるように見えましたが、どうかされたんですか?」

茶道の勉強は、花嫁修行が終わっても続けていた。付け焼き刃の作法ではいずれボロが出ると思ったし、実父も何も言わなかった。よっぽどのことでない限り、基本的には放置してくる人だったから、ある程度は自由にできるのはありがたかった。
先生を自分で選べないのは嫌だったけど、こればかりはどうしようもない。でも優美な老年の女性を紹介され、実際に指導してもらった結果、とても良い先生に会えたと安心できた。
現に観察眼は鋭く、私はこの先生の前に立つと無意識の内に背筋を伸ばしてしまう癖がついてしまった。作法だってそれなりに(こな)れてきたはずなのに、どうして分かってしまうんだろう。

「ええ、最近は何をしても落ち着かなくて…時々ひどく憂鬱になって…」
「そうですか…お嬢様は結婚が近いですから、マリッジブルーというものかもしれませんね」
「マリッジブルー、ですか」
「それに最近は、暑いと思ったらいきなり寒くなるじゃないですか。季節の変わり目というのは、思っている以上に負担がかかるものですよ」

先生の言葉に、風が鼻にツンとくるくらい冷たくなっていたことを思い出しだ。世間ではクリスマス商戦が活発化し、お節や晴れ着の予約はもう終わってしまったところも出ている。季節はもう冬の準備を着々と進めていた。
庭の木々は常緑樹がほとんどで淋しくはならないが、緑ばかりというのも季節感がない。
それでも、パンジーやクリスマスローズ、水仙がこの庭に植えられていると雅樹さんは教えてくれた。色とりどりの花が、この庭では一年中見られると知れたのは素直に嬉しかった。

「そう、ですね。大事にします」

先生の自宅に(しつら)えた茶室はちょっぴり寒い。炉の近くはそれなりだけど、足の指は痺れもあって感覚が麻痺しそうだ。先生と私は正座しながら向かいあって話しているのに、ちっとも姿勢が崩れないのは純粋にすごいなと思う。慣れれば足は痺れなくなるんだろうか。
薄茶点前(うすちゃてまえ)ーーーお椀に(しゃく)で二杯の薄茶を入れて、熱湯で点てる作法ーーーを先生に披露して評価してもらうはずだったのが、人生相談になってしまった。注意力は散漫としてしまっているし、先生は評価どころではないと判断したのだろう。今日の授業はこれでおしまいになった。

私は外で待っている秋永さんに連絡しようと先生の家を出た。いつもより三十分は早いから、まだ車を回してないはずだ。
そこで思いがけず秋永さんと鉢合わせした。珍しく慌てた様子で、実父から緊急の呼び出しがあったと伝えてくれた。

「呼び出しが? 何か仰ってましたか?」
「いえ、ただ、お嬢様を一刻も早く連れてこいとだけ」
「…わかりました。行きましょう」

私は秋永さんの背を追う形で車を停めている場所まで走った。令嬢らしさなんて気にしている場合じゃなかった。
何があったんだろう。まさか、母の容態が急変した? 知らないうちに粗相(そそう)でもやらかしてた? 気持ちばかり焦る。
車は安全運転で、しかし最短ルートで走る。秋永さんも緊張した表情なのがドライブミラーで分かった。そうして私が連れてこられたのは、初めて実父と会ったあの邸宅だった。

大急ぎで私は実父が待っているという部屋へ向かう。あの時とは真逆だな、なんてどこか冷静に考えながら。
襖を開けると、実父は顔をあげて私を見た。いつだって目は笑ってなくても口元は微笑んでいるのに、今は表情と呼べるものはどこにも見当たらなくて、私はその凍りついたような眼差しに足が竦んで動けなくなった。

実父は淡々とした口調で言った。

「笹ヶ谷 睦月とは別れてもらう」
< 16 / 29 >

この作品をシェア

pagetop