ガーベラをかざして
私はその言葉を聞いても理解できなかった。
別れる? 誰が? 笹ヶ谷さんと私? どうして? 何がいけなかったの?
私が困惑して固まったのを見た実夫は、ため息混じりに言い放った。
「君の落ち度じゃない。入院費や手術費は返さなくて結構…すぐに家に戻って支度をしなさい」
私のせいではないけど別れないといけない? 本当にどういうこと?
理由すら明かされずにいきなりそんなことを言われても、全然納得できない。
気を持ち直して部屋に入ると、実父はあからさまに眉をひそめて顔を逸らしたけど、私は構わず知りたいことを聞いてみた。
「理由は何なんです? 私のせいではない、でも婚約破棄をする。そんなの意味がわかりません。理由をちゃんと教えてくれるまで、私は準備も何もしませんから」
「黙れ!」
「私にだって知る権利はあるはずです!」
紳士の皮を剥がして激昂する実父に、私は負けじと言い返した。頭の中が混乱と怒りで煮えくりかえっている気がして、耳の奥でガンガンと音が鳴っている。
実父の青筋は増え「何だその態度は」と悪態をついてきた。さらに胸ぐらをつかまれそうになって思わず身を引くと、後ろから男性の声が響いた。
「旦那様、落ち着いてください!」
「秋永さん!」
「秋永! さっさとこの女を追い出せ!」
秋永さんは私を背にして庇ってくれた。その優しさに感動する暇もなく、私の耳元に彼は口を近づけた。
「お教えします」
何を、と聞かなくても分かった。
私は肩で息をしている実父を尻目に、部屋からさっさと出ていった。お手伝いさんが何事かと物陰からうかがっているのを見つけ、「お騒がせしました」と素っ気なく挨拶をして車へと向かう。
「それで、どういうことなの?」
車に大急ぎで乗り込んでシートベルトをつけた。秋永さんも運転席に座るとエンジンをかけた。この人でも動揺するのか、何回かかけ直してやっとエンジンがかかった。
そこで私はやっと聞けたわけだけど、自分でもびっくりするくらい刺々しい声をしていた。やばいな、と思ったけど、秋永さんは怯えたりせず答えてくれた。
「雅樹が知っています」
「雅樹さんが?」
「お嬢様が稽古を始めてから連絡を受けまして、本宅に勤めている者から事情を聞いたそうです」
「本宅の人から…それは確かなのね?」
「奥様付きの者なので確かです」
それはそれでどうなんだ。
私は思わずツッコミそうになったけど、雅樹さんの交友関係の広さに驚いた。人懐こい性格をしているな、とは思っていたけれど、ここまでなんて。
「とにかく雅樹は家にいますから、帰った時に」
秋永さんはそう言って車を発進させた。
「お嬢様! 親父!」
家に帰ると雅樹さんは玄関で私たちを待っていた。いつもなら言葉遣いで秋永さんからお説教されているのに、今回ばかりはお咎めなしだ。
秋永さんもそれほど追いつめられているんだ。でもどうしてだろう。結婚がなくなっても、水流井本家でまた仕事をすれば良いだけなのに、何かあるんだろうか。
脇道に向かった私の思考は、雅樹さんの深刻そうな声に本筋へと戻された。
「かなりヤバくなってます、本家」
私たち三人は家のリビングで詳しい話を聞くことになった。雅樹さんは一瞬、私の顔を見やった後、決心したように話し始めたーー。
ーー本宅の奥様が、笹ヶ谷 睦月様と密会していた。証拠として、二人が半裸で写っている写真もある。
何故その二人が、と皆して驚愕しているが、その経緯は別に不自然でもない。老舗の呉服屋である水流井家では、結婚式用の白無垢を取り扱っている。笹ヶ谷の御曹司はそれを見にきたが、そこで奥様と出会い、二人は一目で恋に落ちたのだという。
そこからは、石が坂道を転がっていくより速かった。
二人はその日のうちに深い仲となり、駆け落ちの約束までした。だが土壇場になって水流井の旦那様にバレてしまった。激怒した旦那様は奥様を田舎の別宅へ軟禁して、子どもはベビーシッターに託している。
結婚も破談、加えて慰謝料を請求する準備をしているという。
「…ただ、これは訴える素振りを見せているだけで、誠心誠意の謝罪があれば許すそうです。水流井は持ち直したとはいえ、弁護士を雇う余裕はありませんから」
そこまで言って、雅樹さんは口を閉じた。
誰も何も言えなかった。空調の音だけが一定に響き、空気の重さを浮き彫りにしていた。
「…それは、全て水流井の奥様が仰っていたことですか?」
「はい、半狂乱になって喚いていたそうです」
「睦月さんは否定しているのね?」
「全面否定だそうです」
事務的な私の口調に、雅樹さんは必要最低限の返答をしていく。ドラマで見る警察とか検察の尋問てこんな感じだったな、と頭のどこかで思った。
「お嬢様、気を確かになさってください。すぐに何かの間違いだと分かるはずです」
秋永さんは私を励まそうと、力強い声で笹ヶ谷さんの無実を訴えた。私は「ありがとう」と返すと、雅樹さんにどう思うか聞いてみた。
「写真が気になりますね。旦那様が誤解してしまうような写真があるってことですし」
雅樹さんは冷静に意見を述べた。確かにそこは気になるが、私は別にやることがある。
「荷造りをしてくるわ」
「お嬢様…」
「すぐ帰ってくることになるんだから、簡単にでいいわよね」
私は優雅に、お嬢様らしく微笑んでみせた。
別れる? 誰が? 笹ヶ谷さんと私? どうして? 何がいけなかったの?
私が困惑して固まったのを見た実夫は、ため息混じりに言い放った。
「君の落ち度じゃない。入院費や手術費は返さなくて結構…すぐに家に戻って支度をしなさい」
私のせいではないけど別れないといけない? 本当にどういうこと?
理由すら明かされずにいきなりそんなことを言われても、全然納得できない。
気を持ち直して部屋に入ると、実父はあからさまに眉をひそめて顔を逸らしたけど、私は構わず知りたいことを聞いてみた。
「理由は何なんです? 私のせいではない、でも婚約破棄をする。そんなの意味がわかりません。理由をちゃんと教えてくれるまで、私は準備も何もしませんから」
「黙れ!」
「私にだって知る権利はあるはずです!」
紳士の皮を剥がして激昂する実父に、私は負けじと言い返した。頭の中が混乱と怒りで煮えくりかえっている気がして、耳の奥でガンガンと音が鳴っている。
実父の青筋は増え「何だその態度は」と悪態をついてきた。さらに胸ぐらをつかまれそうになって思わず身を引くと、後ろから男性の声が響いた。
「旦那様、落ち着いてください!」
「秋永さん!」
「秋永! さっさとこの女を追い出せ!」
秋永さんは私を背にして庇ってくれた。その優しさに感動する暇もなく、私の耳元に彼は口を近づけた。
「お教えします」
何を、と聞かなくても分かった。
私は肩で息をしている実父を尻目に、部屋からさっさと出ていった。お手伝いさんが何事かと物陰からうかがっているのを見つけ、「お騒がせしました」と素っ気なく挨拶をして車へと向かう。
「それで、どういうことなの?」
車に大急ぎで乗り込んでシートベルトをつけた。秋永さんも運転席に座るとエンジンをかけた。この人でも動揺するのか、何回かかけ直してやっとエンジンがかかった。
そこで私はやっと聞けたわけだけど、自分でもびっくりするくらい刺々しい声をしていた。やばいな、と思ったけど、秋永さんは怯えたりせず答えてくれた。
「雅樹が知っています」
「雅樹さんが?」
「お嬢様が稽古を始めてから連絡を受けまして、本宅に勤めている者から事情を聞いたそうです」
「本宅の人から…それは確かなのね?」
「奥様付きの者なので確かです」
それはそれでどうなんだ。
私は思わずツッコミそうになったけど、雅樹さんの交友関係の広さに驚いた。人懐こい性格をしているな、とは思っていたけれど、ここまでなんて。
「とにかく雅樹は家にいますから、帰った時に」
秋永さんはそう言って車を発進させた。
「お嬢様! 親父!」
家に帰ると雅樹さんは玄関で私たちを待っていた。いつもなら言葉遣いで秋永さんからお説教されているのに、今回ばかりはお咎めなしだ。
秋永さんもそれほど追いつめられているんだ。でもどうしてだろう。結婚がなくなっても、水流井本家でまた仕事をすれば良いだけなのに、何かあるんだろうか。
脇道に向かった私の思考は、雅樹さんの深刻そうな声に本筋へと戻された。
「かなりヤバくなってます、本家」
私たち三人は家のリビングで詳しい話を聞くことになった。雅樹さんは一瞬、私の顔を見やった後、決心したように話し始めたーー。
ーー本宅の奥様が、笹ヶ谷 睦月様と密会していた。証拠として、二人が半裸で写っている写真もある。
何故その二人が、と皆して驚愕しているが、その経緯は別に不自然でもない。老舗の呉服屋である水流井家では、結婚式用の白無垢を取り扱っている。笹ヶ谷の御曹司はそれを見にきたが、そこで奥様と出会い、二人は一目で恋に落ちたのだという。
そこからは、石が坂道を転がっていくより速かった。
二人はその日のうちに深い仲となり、駆け落ちの約束までした。だが土壇場になって水流井の旦那様にバレてしまった。激怒した旦那様は奥様を田舎の別宅へ軟禁して、子どもはベビーシッターに託している。
結婚も破談、加えて慰謝料を請求する準備をしているという。
「…ただ、これは訴える素振りを見せているだけで、誠心誠意の謝罪があれば許すそうです。水流井は持ち直したとはいえ、弁護士を雇う余裕はありませんから」
そこまで言って、雅樹さんは口を閉じた。
誰も何も言えなかった。空調の音だけが一定に響き、空気の重さを浮き彫りにしていた。
「…それは、全て水流井の奥様が仰っていたことですか?」
「はい、半狂乱になって喚いていたそうです」
「睦月さんは否定しているのね?」
「全面否定だそうです」
事務的な私の口調に、雅樹さんは必要最低限の返答をしていく。ドラマで見る警察とか検察の尋問てこんな感じだったな、と頭のどこかで思った。
「お嬢様、気を確かになさってください。すぐに何かの間違いだと分かるはずです」
秋永さんは私を励まそうと、力強い声で笹ヶ谷さんの無実を訴えた。私は「ありがとう」と返すと、雅樹さんにどう思うか聞いてみた。
「写真が気になりますね。旦那様が誤解してしまうような写真があるってことですし」
雅樹さんは冷静に意見を述べた。確かにそこは気になるが、私は別にやることがある。
「荷造りをしてくるわ」
「お嬢様…」
「すぐ帰ってくることになるんだから、簡単にでいいわよね」
私は優雅に、お嬢様らしく微笑んでみせた。