ガーベラをかざして
それから一ヶ月後、音沙汰がなさ過ぎて、さすがに感傷には浸らなくなってきた頃だった。
窓の外では木枯らしが吹いて、葉をすっかり落とした枝を揺らしていた。今日の最高気温は十四度、澄んだ青空が広がり見事な冬晴れの天気だ。
ビデオカード販売機はナースステーションの近くにある。談話室や公衆電話もそうだし、回診や消灯時間でもない限りいつでも人が集まる場所だ。離れていても看護師さんたちが慌ただしく出入りしていたり、患者さんの家族が電話をかけていたりするところをよく見かけた。今だって談話室を横切ろうとすると、お年寄りが数人、テレビを見たり雑誌を読んでいるのが見えた。この病院ではよく見る光景だ。でも今日は少しだけ違っていた。
〈…笹ヶ谷グループは…〉
販売機に千円札を入れようとしていた手を止めて、私は談話室に入った。お年寄りたちは一度ちらりとこちらを見ただけで、すぐ自分たちの世界に没頭してしまったがそんなの気にしている場合じゃない。
高めの棚に置かれたテレビでは、〈笹ヶ谷グループ、水流井呉服店を買収〉と書かれたテロップが写しだされている。
〈…水流井呉服店の全株式を取得し、完全子会社化することを発表しました。取得額は…〉
アナウンサーは感情のこもらない口調で原稿を読みあげていた。特集でもないから大まかな話だけで終わり、スポーツコーナーに切り替わってしまった。
私は談話室を出ると販売機でカードを三枚買った。早歩きで病室まで戻ると、母さんはひどく驚いた顔をした。
「何かあったの? 真っ白じゃない!?」
「今日はそろそろ帰るね」
「え? うん、お大事にね?」
顔色が相当悪かったらしい。挨拶もそこそこにカードを手渡しバッグをつかむと、病院の外まで急いだ。気持ちだけは母さんと二人で暮らす部屋に到着しているのに、身体がついてこないのがもどかしい。
病院の正面玄関から出ると、キャラメル色した外壁に背中をくっつけてスマートフォンをコートのポケットから出した。ドキドキしながら画面を見ると、雅樹さんからの連絡を示すメッセージが表示されている。
〈アパート前でお待ちしてます〉
日時も何も書いてなかった。送信された時間を確認すると三十分くらい前だ。緊張で手にじんわりと汗がにじむまま、〈すぐに行きます〉と返信してバス停まで走った。
バスを待つ間、バスに乗っている間、雅樹さんが帰ったりしないようにと祈った。スマートフォンはうんともすんとも言わないし、それがまた不安を煽る。
バスを降りてからは全速力でアパートまで走った。脇腹を抑えながら、二階建てのクリーム色した建物を目指す。
揺れる視界に雅樹さんが駆けよってくるのが映り、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「だ…、じょ、です…」
ぜぇぜぇ息を吐きながらも伝えると、雅樹さんは私が落ちつくまで待ってくれた。聞きたいこと、話したいことが頭の中をぐるぐる回っていたけれど、ここでするようなものではないし、呼吸が乱れて会話できない。数十秒で息を整えて、母さんと暮らしている部屋に案内させてもらった。
「お茶をお持ちしますので…」
「どうぞお構いないく…」
母娘ふたりで暮らす手狭な部屋に、雅樹さんがいる。不思議な感じだ。うちのリビング兼食卓には炬燵が鎮座していて、雅樹さんは遠慮がちに膝だけを布団に入れている。
私はスーパーの特売緑茶を淹れる。粉タイプで茶碗にお湯を注げば簡単にできる、庶民の味方だ。
「…失礼いたします」
「ありがとうございます…」
軽く頭を下げてきた雅樹さんの顔は緊張していた。あまり良い報告ではないのだろうと覚悟を決めて、私は雅樹さんの向かいに座った。お茶で口を湿らせた彼は、私の顔をまっすぐ見て、怒涛の一ヶ月間を教えてくれた。
ーーあれから、写真自体は計画的なものだとわかったんです。呉服屋に白無垢を見にきた笹ヶ谷様に、奥様が一目惚れして一方的に迫ったのが真相です。
奥様は「カタログや生地を見せたいから」と個室に笹ヶ谷様を招きいれ、実家が経営している果実園のジュースだと言ってお酒を飲ませて写真を撮った…そう自白なさいました。
笹ヶ谷様がお酒に弱いことは、旦那様が話しているのを聞いたとおっしゃってました。
笹ヶ谷様と奥様の間に何もなかったことは証明されたのですが、今度は笹ヶ谷様が名誉毀損で訴えると非常に憤慨なさっていて…それを回避するために、旦那様は買収を受け入れたそうです。
「秋永さんが言ってたとおりになった…」
私は思わず呟いた。あの家を出る時、秋永さんはまるで見てきたように言っていた。
ーー笹ヶ谷様の潔白は必ず証明されます。その時は、水流井の家も無事ではすまないでしょう。ニュースになるはずです。その時は、必ず連絡いたします。
秋永さんが余計にわからなくなったけど、今は笹ヶ谷さんだ。水流井の後妻さんも気になる。
「その…水流井の奥様はどうしてそんな…、結果がどうなるか、わかっていたでしょうに…」
「…これは親父の見解なんですが」
雅樹さんはもう一度お茶を飲んでから呟くように言った。
「奥様は親に言われるまま結婚して子どもを産みました。旦那様は務めは果たしたと女遊びをするようになってしまって…」
「それは…大変な思いをされたんですね」
「いえ、奥様は何とも思ってらっしゃらないようでした。自分の意思はなく、人形のように生きている方だったんですが、笹ヶ谷様と初めて会ってーー初めて、意思を持って行動したのではないかと」
「…」
「同情してほしいとかではないんです。狂っているとしか思えないでしょうが、裏には事情があったかもしれないとだけーー」
「奥様はこれからどうなるんでしょうか」
雅樹さんの言葉を遮り、私は気になっていることの一つを聞いてみた。
雅樹さんはゆるゆると首を振る。
「わかりません、奥様のご実家がこの間引きとっていかれましたが…離婚になるのではないかと使用人たちは噂しています」
「そう…」
「わかっていることはこれだけです。あの、お嬢様の縁談に関しましては…」
「それどころじゃないし、こうなった以上は破談でしょうね、どう考えても」
「…」
雅樹さんは黙りこんでしまった。予想はしていたからショックでも何でもないけど、こんな形ではなく、騙していたことを謝罪してからにしたかった。私の自己満足でしかないかもしれない。それでも“通すべき筋”というものはあるだろう。
それさえ、もうできやしない。
「雅樹さん、今日はありがとう」
「!…いいえ、お嬢様ーー」
「もうお嬢様じゃないですよ」
「…どうぞ、お元気で」
雅樹さんは気まずそうな顔のまま帰っていった。ドアが閉まる音に、私は夢から覚めたような心地がした。
そうだ、今までは全て夢なんだ。
夢は忘れて、母さんと慎ましく暮らしていこう。
茶碗を洗いながら壁時計を確認すると、あと数時間でコンビニバイトの時間だった。
窓の外では木枯らしが吹いて、葉をすっかり落とした枝を揺らしていた。今日の最高気温は十四度、澄んだ青空が広がり見事な冬晴れの天気だ。
ビデオカード販売機はナースステーションの近くにある。談話室や公衆電話もそうだし、回診や消灯時間でもない限りいつでも人が集まる場所だ。離れていても看護師さんたちが慌ただしく出入りしていたり、患者さんの家族が電話をかけていたりするところをよく見かけた。今だって談話室を横切ろうとすると、お年寄りが数人、テレビを見たり雑誌を読んでいるのが見えた。この病院ではよく見る光景だ。でも今日は少しだけ違っていた。
〈…笹ヶ谷グループは…〉
販売機に千円札を入れようとしていた手を止めて、私は談話室に入った。お年寄りたちは一度ちらりとこちらを見ただけで、すぐ自分たちの世界に没頭してしまったがそんなの気にしている場合じゃない。
高めの棚に置かれたテレビでは、〈笹ヶ谷グループ、水流井呉服店を買収〉と書かれたテロップが写しだされている。
〈…水流井呉服店の全株式を取得し、完全子会社化することを発表しました。取得額は…〉
アナウンサーは感情のこもらない口調で原稿を読みあげていた。特集でもないから大まかな話だけで終わり、スポーツコーナーに切り替わってしまった。
私は談話室を出ると販売機でカードを三枚買った。早歩きで病室まで戻ると、母さんはひどく驚いた顔をした。
「何かあったの? 真っ白じゃない!?」
「今日はそろそろ帰るね」
「え? うん、お大事にね?」
顔色が相当悪かったらしい。挨拶もそこそこにカードを手渡しバッグをつかむと、病院の外まで急いだ。気持ちだけは母さんと二人で暮らす部屋に到着しているのに、身体がついてこないのがもどかしい。
病院の正面玄関から出ると、キャラメル色した外壁に背中をくっつけてスマートフォンをコートのポケットから出した。ドキドキしながら画面を見ると、雅樹さんからの連絡を示すメッセージが表示されている。
〈アパート前でお待ちしてます〉
日時も何も書いてなかった。送信された時間を確認すると三十分くらい前だ。緊張で手にじんわりと汗がにじむまま、〈すぐに行きます〉と返信してバス停まで走った。
バスを待つ間、バスに乗っている間、雅樹さんが帰ったりしないようにと祈った。スマートフォンはうんともすんとも言わないし、それがまた不安を煽る。
バスを降りてからは全速力でアパートまで走った。脇腹を抑えながら、二階建てのクリーム色した建物を目指す。
揺れる視界に雅樹さんが駆けよってくるのが映り、私はその場にしゃがみ込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「だ…、じょ、です…」
ぜぇぜぇ息を吐きながらも伝えると、雅樹さんは私が落ちつくまで待ってくれた。聞きたいこと、話したいことが頭の中をぐるぐる回っていたけれど、ここでするようなものではないし、呼吸が乱れて会話できない。数十秒で息を整えて、母さんと暮らしている部屋に案内させてもらった。
「お茶をお持ちしますので…」
「どうぞお構いないく…」
母娘ふたりで暮らす手狭な部屋に、雅樹さんがいる。不思議な感じだ。うちのリビング兼食卓には炬燵が鎮座していて、雅樹さんは遠慮がちに膝だけを布団に入れている。
私はスーパーの特売緑茶を淹れる。粉タイプで茶碗にお湯を注げば簡単にできる、庶民の味方だ。
「…失礼いたします」
「ありがとうございます…」
軽く頭を下げてきた雅樹さんの顔は緊張していた。あまり良い報告ではないのだろうと覚悟を決めて、私は雅樹さんの向かいに座った。お茶で口を湿らせた彼は、私の顔をまっすぐ見て、怒涛の一ヶ月間を教えてくれた。
ーーあれから、写真自体は計画的なものだとわかったんです。呉服屋に白無垢を見にきた笹ヶ谷様に、奥様が一目惚れして一方的に迫ったのが真相です。
奥様は「カタログや生地を見せたいから」と個室に笹ヶ谷様を招きいれ、実家が経営している果実園のジュースだと言ってお酒を飲ませて写真を撮った…そう自白なさいました。
笹ヶ谷様がお酒に弱いことは、旦那様が話しているのを聞いたとおっしゃってました。
笹ヶ谷様と奥様の間に何もなかったことは証明されたのですが、今度は笹ヶ谷様が名誉毀損で訴えると非常に憤慨なさっていて…それを回避するために、旦那様は買収を受け入れたそうです。
「秋永さんが言ってたとおりになった…」
私は思わず呟いた。あの家を出る時、秋永さんはまるで見てきたように言っていた。
ーー笹ヶ谷様の潔白は必ず証明されます。その時は、水流井の家も無事ではすまないでしょう。ニュースになるはずです。その時は、必ず連絡いたします。
秋永さんが余計にわからなくなったけど、今は笹ヶ谷さんだ。水流井の後妻さんも気になる。
「その…水流井の奥様はどうしてそんな…、結果がどうなるか、わかっていたでしょうに…」
「…これは親父の見解なんですが」
雅樹さんはもう一度お茶を飲んでから呟くように言った。
「奥様は親に言われるまま結婚して子どもを産みました。旦那様は務めは果たしたと女遊びをするようになってしまって…」
「それは…大変な思いをされたんですね」
「いえ、奥様は何とも思ってらっしゃらないようでした。自分の意思はなく、人形のように生きている方だったんですが、笹ヶ谷様と初めて会ってーー初めて、意思を持って行動したのではないかと」
「…」
「同情してほしいとかではないんです。狂っているとしか思えないでしょうが、裏には事情があったかもしれないとだけーー」
「奥様はこれからどうなるんでしょうか」
雅樹さんの言葉を遮り、私は気になっていることの一つを聞いてみた。
雅樹さんはゆるゆると首を振る。
「わかりません、奥様のご実家がこの間引きとっていかれましたが…離婚になるのではないかと使用人たちは噂しています」
「そう…」
「わかっていることはこれだけです。あの、お嬢様の縁談に関しましては…」
「それどころじゃないし、こうなった以上は破談でしょうね、どう考えても」
「…」
雅樹さんは黙りこんでしまった。予想はしていたからショックでも何でもないけど、こんな形ではなく、騙していたことを謝罪してからにしたかった。私の自己満足でしかないかもしれない。それでも“通すべき筋”というものはあるだろう。
それさえ、もうできやしない。
「雅樹さん、今日はありがとう」
「!…いいえ、お嬢様ーー」
「もうお嬢様じゃないですよ」
「…どうぞ、お元気で」
雅樹さんは気まずそうな顔のまま帰っていった。ドアが閉まる音に、私は夢から覚めたような心地がした。
そうだ、今までは全て夢なんだ。
夢は忘れて、母さんと慎ましく暮らしていこう。
茶碗を洗いながら壁時計を確認すると、あと数時間でコンビニバイトの時間だった。