ガーベラをかざして
接近
『菜乃花さんは花がお好きなんですね』
御曹司からの問いかけに、私は薄く笑みを浮かべる。
『ええ、睦月さんは?』
『…正直、分からないんです』
『分からない、と仰いますと?』
『薔薇とかチューリップのような花なら分かるんですが、全く詳しくなくて』
そう会話したのが、二週間ほど前、夜景が美しい高級レストランで食事をした時だった。
あの邸宅に移り住んでから二ヶ月くらいが過ぎた。青々とした木々や牡丹の見頃が過ぎて、梅雨の時期に入ったものの、この人との仲は進展したりしなかった。それもそのはず、多忙で私だけに構っている暇はない。それでも、敏腕社長として活躍する傍ら、出来るだけ私との時間を作ろうとしているようだった。
高級レストランでの食事もそうだ。秋永さんから連絡をもらって、準備していったは良いものの中々来なかった。無理する必要はないのに、と思いながら、結局のところ鳴りそうなお腹を一時間は宥めながら待った。
現れた彼はいつものように仏頂面だった。謝罪してきたので、気にしていないと大人の対応で返した。というより本当に気にしてなくて、さっさと夕飯を食べたかった。
『美しい夜景をじっくり観賞できましたし、どうぞ頭をおあげになって?』
可能な限り嫋やかに微笑むと、婚約者は彫りの深い顔を僅かに歪めた。どういう感情なのか全く分からない。
ともかく、テーブルマナーに気を付けながら高級フレンチを楽し…めなかった。皿の大きさに対して少ないし、緊張して味わう余裕なんてない。コンビニで売ってるチキンが食べたい。唐辛子パウダー付きのやつ。
私がジャンクフードに思いを馳せているなんて露知らず、目の前の婚約者はお上品に料理を片付けてしまう。デザートを食べる所作すら様になっていて、カラトリーの使い方が自然で、ぎごちなさとは無縁な姿。ああ、この人は悪くないのにイライラする。
『あの』
『っ、はい』
バレた? 顔に出てた? まずい、どうしよう。
内心で冷や汗をかいている私に、婚約者は眉間の皺をさらに深めて言った。
『遅刻してしまったお詫びに、埋め合わせをさせてほしいのですが』
『まぁ、本当に気にしてなどいませんのよ』
良かった。バレてなかった。
心臓がバックバクなのを悟られないように、必死に笑顔で隠した。
『…お優しいんですね、菜乃花さんは』
『睦月さんはお忙しい方なんですし、今日は来てくださっただけで嬉しく思っておりますもの』
あ、しまった。これは嫌味に聞こえてしまった。
私は彼の険しくなった顔を見て思った。血の気が引く音がする。
『…あの、それにしても、ここは夜景だけでなくて、花も素敵ですね。このテーブルのブリザーブドフラワーなんて小さくても華やかでーー』
そう慌てて話を逸らす私に、冒頭の一言をしかめっ面のまま言ったのだ。
それから二週間後、私たちは小島を散策していた。
状況が飲み込めない。隣りをゆったりと歩くこの男がいきなり家にやってきたと思ったら、この小島まで自家用ジェットに乗せられ連れて来られた。
空は雲ひとつ見当たらない晴天、地には夏の花々が満ち、木々も青々と茂る。天国というのはこういう場所なのかと思ってしまった。こんな状況でなければ、思いっきり散策して楽しむのに。
それにしても、ここはどこだろう。私たち以外に人がいないから、観光地ではなさそうだ。
「あの、睦月さん、この島は一体…?」
私は訝しんでいるのを隠して、おずおずと話しかける。麦わら帽子を深く被っているから顔は見えない。そのことが少しだけ私を積極的にしていた。
「私が所有している島です」
事もなげに返され、私はどう会話を続けたら良いのか迷った。そんな私に、この御曹司は耳を疑うような発言を投下した。
「菜乃花さんに差し上げようと思って」
島。
プレゼント。
…いや、困るわ。
危うく口から転げそうな言葉を飲み下し、私は口元を軽く綻ばせた。
「こんな美しい島を独り占めしてしまったら、罰が当たりそうですわ」
「…申し訳ない。初めて貴女が好きなものを知って、浮かれてしまった」
それは見合いの時にあの実父がーーと思いかけ、そういや「どこのお嬢様学校に行った」「そこでどれだけ優秀だったか」とか偽の経歴だけ話しまくって、趣味とか好きなものは何も言ってなかった。
そこで、言っても差し支えはないだろうと言ってしまったのだ。
「ええ、花は本当に好きで…、もしこのような立場でなければ、花屋になりたいぐらいです」
「ピッタリですね」
それは、“お前はお嬢様に見えない、庶民に見えるぞ”ということか。
前はそう思ったかもしれない。けど声が何故か優しく聞こえて、身の置き場がないような、ひどく恥ずかしい気持ちになってしまった。
それを振り切るように、私はある花を見つけて声をかけた。
「睦月さん、ケイトウが見事ですよ!」
「ケイトウ、というんですか」
「ええ、ニワトリのトサカに似ていると言われていてーー」
私がそうやって色々な花を説明するのを、この人がどんな顔で見ているか全く気にしていなかった。それどころか、この人が、笹ヶ谷さんが私に惚れている、というのは強ち嘘ではないかもしれない、なんて思っていた。
御曹司からの問いかけに、私は薄く笑みを浮かべる。
『ええ、睦月さんは?』
『…正直、分からないんです』
『分からない、と仰いますと?』
『薔薇とかチューリップのような花なら分かるんですが、全く詳しくなくて』
そう会話したのが、二週間ほど前、夜景が美しい高級レストランで食事をした時だった。
あの邸宅に移り住んでから二ヶ月くらいが過ぎた。青々とした木々や牡丹の見頃が過ぎて、梅雨の時期に入ったものの、この人との仲は進展したりしなかった。それもそのはず、多忙で私だけに構っている暇はない。それでも、敏腕社長として活躍する傍ら、出来るだけ私との時間を作ろうとしているようだった。
高級レストランでの食事もそうだ。秋永さんから連絡をもらって、準備していったは良いものの中々来なかった。無理する必要はないのに、と思いながら、結局のところ鳴りそうなお腹を一時間は宥めながら待った。
現れた彼はいつものように仏頂面だった。謝罪してきたので、気にしていないと大人の対応で返した。というより本当に気にしてなくて、さっさと夕飯を食べたかった。
『美しい夜景をじっくり観賞できましたし、どうぞ頭をおあげになって?』
可能な限り嫋やかに微笑むと、婚約者は彫りの深い顔を僅かに歪めた。どういう感情なのか全く分からない。
ともかく、テーブルマナーに気を付けながら高級フレンチを楽し…めなかった。皿の大きさに対して少ないし、緊張して味わう余裕なんてない。コンビニで売ってるチキンが食べたい。唐辛子パウダー付きのやつ。
私がジャンクフードに思いを馳せているなんて露知らず、目の前の婚約者はお上品に料理を片付けてしまう。デザートを食べる所作すら様になっていて、カラトリーの使い方が自然で、ぎごちなさとは無縁な姿。ああ、この人は悪くないのにイライラする。
『あの』
『っ、はい』
バレた? 顔に出てた? まずい、どうしよう。
内心で冷や汗をかいている私に、婚約者は眉間の皺をさらに深めて言った。
『遅刻してしまったお詫びに、埋め合わせをさせてほしいのですが』
『まぁ、本当に気にしてなどいませんのよ』
良かった。バレてなかった。
心臓がバックバクなのを悟られないように、必死に笑顔で隠した。
『…お優しいんですね、菜乃花さんは』
『睦月さんはお忙しい方なんですし、今日は来てくださっただけで嬉しく思っておりますもの』
あ、しまった。これは嫌味に聞こえてしまった。
私は彼の険しくなった顔を見て思った。血の気が引く音がする。
『…あの、それにしても、ここは夜景だけでなくて、花も素敵ですね。このテーブルのブリザーブドフラワーなんて小さくても華やかでーー』
そう慌てて話を逸らす私に、冒頭の一言をしかめっ面のまま言ったのだ。
それから二週間後、私たちは小島を散策していた。
状況が飲み込めない。隣りをゆったりと歩くこの男がいきなり家にやってきたと思ったら、この小島まで自家用ジェットに乗せられ連れて来られた。
空は雲ひとつ見当たらない晴天、地には夏の花々が満ち、木々も青々と茂る。天国というのはこういう場所なのかと思ってしまった。こんな状況でなければ、思いっきり散策して楽しむのに。
それにしても、ここはどこだろう。私たち以外に人がいないから、観光地ではなさそうだ。
「あの、睦月さん、この島は一体…?」
私は訝しんでいるのを隠して、おずおずと話しかける。麦わら帽子を深く被っているから顔は見えない。そのことが少しだけ私を積極的にしていた。
「私が所有している島です」
事もなげに返され、私はどう会話を続けたら良いのか迷った。そんな私に、この御曹司は耳を疑うような発言を投下した。
「菜乃花さんに差し上げようと思って」
島。
プレゼント。
…いや、困るわ。
危うく口から転げそうな言葉を飲み下し、私は口元を軽く綻ばせた。
「こんな美しい島を独り占めしてしまったら、罰が当たりそうですわ」
「…申し訳ない。初めて貴女が好きなものを知って、浮かれてしまった」
それは見合いの時にあの実父がーーと思いかけ、そういや「どこのお嬢様学校に行った」「そこでどれだけ優秀だったか」とか偽の経歴だけ話しまくって、趣味とか好きなものは何も言ってなかった。
そこで、言っても差し支えはないだろうと言ってしまったのだ。
「ええ、花は本当に好きで…、もしこのような立場でなければ、花屋になりたいぐらいです」
「ピッタリですね」
それは、“お前はお嬢様に見えない、庶民に見えるぞ”ということか。
前はそう思ったかもしれない。けど声が何故か優しく聞こえて、身の置き場がないような、ひどく恥ずかしい気持ちになってしまった。
それを振り切るように、私はある花を見つけて声をかけた。
「睦月さん、ケイトウが見事ですよ!」
「ケイトウ、というんですか」
「ええ、ニワトリのトサカに似ていると言われていてーー」
私がそうやって色々な花を説明するのを、この人がどんな顔で見ているか全く気にしていなかった。それどころか、この人が、笹ヶ谷さんが私に惚れている、というのは強ち嘘ではないかもしれない、なんて思っていた。