ガーベラをかざして
ケイトウを始め、ヒマワリやトケイソウ、タチアオイなど、夏に見られる花をとにかく説明した。笹ヶ谷さんはこちらが思うより聞き上手で、合間に質問してきたり、適度に相槌を返してくれたりして、本当に話しやすかった。

「それで、一年草や多年草があるんですが、初心者でも育てやすいのがーー」

夢中で説明を続けようとしたら、いきなり強い風が吹いて麦わら帽子を飛ばしてしまった。大慌てで帽子を取ろうとしたが、高い木に引っかかってしまい取れそうにない。

「あの、睦月さんーー」

帽子を取ってくれないかと振り向くと、般若がそこにいた。
眉間の皺もさることながら、ギリギリと聞こえそうなほど歯を噛み締めている。目には刃物のような危うい光が宿り、額には青筋が浮かんでいた。
殺される。
私は思わず後退りした。けれど目は決して離さない。離したら最後、飛びかかってくるんじゃないかと思ったからだ。

「…」
「…」

お互いにしばらく無言で見つめあっていたが、般若、というか悪鬼が一歩一歩と近づいてくる。
私はとうとう腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。顔を伏せ目を瞑って、母にお別れの言葉を呟いた。母さん、先立つ不幸をどうか許して。父さん、早すぎるけど、すぐそこに行くよーー。
辞世の句まで詠みかけた私の頭に、何かが乗せられたことで目を開け振り仰いだ。
日差しが遮られている。

「…あの、ありがとう、ございます」

麦わら帽子を取ってくれたのだとようやく理解し、私はぎこちなく礼を言った。

「どういたしまして」

声は素っ気なかったけど怒りは感じられない。それだけで十分だった。怖い。怖すぎた。あの顔もそうだけど、一体どういうつもりであんな顔したのかが分からない。それが一番怖かった。
あれなの? ベラベラ好き放題お喋りしたから? 黙って大人しくしてろって?
混乱する私を、さらに混乱させる事態が待っていた。

「ひっ…」
「大丈夫です、ジェット機まで運ぶだけですから」

腰を抜かした私を横抱きにして、抱き上げたのだ。
お姫様抱っこというやつだが、笹ヶ谷さんの首に手を回す勇気はない。美形がお姫様抱っこしてくれるなんて、女の子の夢みたいな状況だけど、私はもう恐怖で卒倒したかった。

あれだけ楽しかった気持ちは吹き飛んでしまって、ただひたすらに縮こまってこの時間が終わるのを待つ。
顔を下げた時に、夏らしい空色のワンピースや白いパンプスが目に入った。可愛らしいそれは、一ヶ月前に外商員の方が持ってきてくれたものだ。

笹ヶ谷家お抱えだというその方は、笹ヶ谷家の個人的な担当であり、会社全体の担当でもあった。個人と法人、両方を受け持っているのだから、それだけでも素晴らしい手腕であることはわかる。
そもそも“外商員”という存在を、この方を通して初めて知った。秋永さんから教えてもらって、笹ヶ谷家は雲の上の人たちなんだと改めて実感できた。

『外商員、ですか?』
『はい、笹ヶ谷様は多忙なお方ですし、いちいち百貨店に出かけるわけにも参りません。ですから、百貨店に担当を設け、その担当が笹ヶ谷様の御自宅や別宅まで向かい、商品の紹介をなさるのです』
『手間を省くために、その、外商員をお店のほうで雇っているんですね』
『仰る通りです。これからいらっしゃる外商員の方は、笹ヶ谷様個人だけでなく、会社の担当もなさっておりますから、今後も顔を合わせることが増えるのではないかと』

秋永さんから、笹ヶ谷家の外商員がこれから服や靴の紹介に来ると聞き、思い切って聞いてみた。鼻で笑われたりしないかと思ったが、秋永さんは穏やかな笑みを浮かべ、丁寧に分かりやすく説明してくれた。
腹の中では笑っているのかもしれないけど、それでもこの人を好ましく思う。実母はきっと、結婚して私が生まれるまでは幸せだったんじゃないだろうか。穏やかな笑顔、というのは、それだけで人を和ませてしまうものがある。バイト先の店長がそう教えてくれた。花屋は接客業でもあるし、店長は笑顔がどれだけ大切かわかっていたんだろう。

外商員の方も良い笑顔だった。信頼関係の構築が何より大切になるだろうこの仕事では、笑顔は大事な武器だ。
今年で五十三だという外商員の待浦(まちうら)さんは、若々しくて四十代に見える。艶のある黒髪と、くっきりした二重でそう見えるのかもしれない。
彼は部下を数名連れて、私に服や靴のカタログを見せてくれたり、実際に服や靴をもってきて触らせてくれたりした。この服はどういう時に着るのが良いか、この靴はどこそこのブランドだ、というのを教えてくれた。

『あの、外を歩くのに向いてる服ってありますか? 外をちょっと散歩する時に着るような…』

気圧されてためらいがちな質問にも、待浦さんは優しく答えてくれた。

『では少しカジュアルな服を見てみましょうか』

そう言って取り出したのが、この空色のワンピースだった。手縫いだという刺繍が襟や裾にあり、控えめな令嬢のイメージにピッタリだと思った。梅雨の時期だったから青空が恋しいというのもあった。
とにかく一目で気に入った私は、このワンピースに似合いの靴を合わせて購入したのだ。

私はこの服や靴を買ってくれた人の顔を、こうして恐れて見れずにいる。外商員の方を送ってくれたのは、顔見せの意味もあっただろう。こうして婚約者として相応に扱ってくれるのに、どうして突然あんなに怒るんだろう。

私は今なお笹ヶ谷さんとの距離を測りかねていた。
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