秘め事は社長室で
ハッと顔を上げるとアパートの前で、慌ててシートベルトを外す。涙はさすがに枯れていた。
「送っていただき、ありがとうございました!」
半ばヤケクソになりながらお礼を言って、飛び出すように車から出ようとする。
「天音」
しかし、凛と呼ばれた名前に、金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。
きちんと名前を呼ばれたのは、初めてかもしれない。ちゃんと名前覚えてたんだ、なんて場違いなことを思った。
「……」
せめてもの抵抗で、振り向かなかった。
まだ、心がぐちゃぐちゃだったから。なのに。
「俺、秘書が要らないって言った気持ちは今も変わらないけど」
「ッ、何なんですか! もう!」
上げて落とす趣味でもあるのか、人の傷口に塩を塗り込むような性悪発言に、思わず振り向いてしまった。
ほんといけすかない! そう噛みつこうとして、だけど思いの外真剣な、澄んだ眼差しと絡んでしまい、声が萎む。
「誰か秘書を選べって言われるなら、あんたを選ぶよ」
なにそれ。
心臓が不規則な音を立て、頭が真っ白になる。
笑えばいいのか、眉を顰めればいいのか、図りかねているうちに、薄い唇がふっと笑みを乗せた。
「おやすみ」
そして、結局何も言えないまま、私はその言葉に押し出されるようにふらふらと車を降りる。
呆然とする私を彼は少しだけ見つめた後、クラクションを一度だけ鳴らし、車はまた滑らかに走り出した。
「わ、わけわかんない……」
車のライトが暗闇に溶けてなくなるまで立ち尽くした後、やがて落とされたのは自分でも笑えるくらい弱りきった困り声で。
頬を撫でる風が妙に気持ちよくて、そこでようやく、自分の顔が火照っていることに気がついたのだった。