統合失望
中庸が大事であるとひたすら言い続けていたのは覚えている。
中部病院でも容体分からず、最後は医大に回された。
最初は神経内科で入院していたらしい。その時覚えているのは三国志の世界観に浸っていたことだ。何度もベッドの上で腹筋をしていたらしい。その度に心電図が外れ、ピコンピコンと音を鳴らしていた。テレビが私の右側にあったであろうか。マイケルジャクソンの死については非常に鮮明に映っていた。
そのあとは一切記憶にない。母いわく、骨髄液を取ったらしいが痛みも感じていなかった。


2 医大生活
集中治療室から外れて少しずつ回復してきた。
言葉も記憶も曖昧な中、車いす生活、食事の開始、排便、当たり前のことが当たり前に出来なかったのでリハビリ。
すんなりだった。とりあえず生きることしか考えていなかったか知れないが、ただ毎日が回復へ向けて過ぎていった。
私は、統合失調症患者。
主治医。吉田 先生
薬の名前はすべて把握していないが、精神安定剤いわゆる薬物療法で回復を促していった。
主剤であるリスパダールからジプレキサ、エビリファイになり少しずつ良くなってきた。
退院までに3か月を要した。
とやかく主治医は比較してはいけないが、優しい先生で。あ、この先生ならついていきたい。そう思わす若いながらにして名医であった。
院内外出、院外外出、そして外泊を経て、退院が決まった。
なんと外は綺麗で美しいのだろう。
長い間隔離生活から遂に社会の扉が開いたのであった。
高校に戻るも何も勉強のべんすら分からず、ただボーっとしていた。
何とか卒業するも、普通高校なので進学出来ず、浪人生となった。


3 浪人時代
恥ずかしながら、2年の浪人を経験している。
盛岡中央ゼミナールで浪人生となったが、授業がハイレベルなのかついていけず、毎日が嫌でしょうがなかった。唯一の楽しみは学生寮での仲間との交流だ。当時、アイドルグループのAKB48が流行っていた。推しがいて、男の誰しもが一度は会いにいけるアイドルに夢中になったに違いない。そこで悪い遊びも覚えていった。
2年目、時は2011年。東日本大震災の年である。私は盛岡のゼミナールにいた時であった。揺れる大地。街灯がしなっている。停電する。揺れが一向に収まらない。さらに雪が降る。この世の終わりかとさえ思った。
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