密かに出産するはずが、迎えにきた御曹司に情熱愛で囲い落とされました
「……いえ」
「そうですか、わかりました」
これで終わり?
呆気にとられつつも渡された紙を持ち、立ち上がろうと中腰になったとき。
「予約されたときに気づいたのですが、今回相続されるこちらのご実家は、青空商店街にある石橋仕出し店ではありませんか?」
君塚先生と、初めてまともに目が合った。
「そ、そうです」
うちを知ってるんだ……。
腰を浮かせたまま目をぱちくりさせた私は、再びソファに腰を下ろす。
「昔よく通ってました。もう十年以上前になりますが」
「え!」
君塚先生の告白に、私は仰け反りそうになるくらい驚いた。
十年前は祖父母が切り盛りしていた頃だ。私はまだ高校生で、少しだけ掃除を手伝ったりしていた。
こんなに美しい男性がうちみたいなこじんまりした弁当屋に通ってくれていたなんて、正直信じがたい。この人なら、もっとおしゃれなフレンチとかの方が似合っているのに。
「そうだったんですね。私、石橋仕出し店を切り盛りしていた千代(ちよ)の孫です。その節はご贔屓にしてくださり、ありがとうございました」
祖母に代わってお礼を伝えると、君塚先生は悲しげに目を細めた。
「相続登記の手続きをされるということは、千代さんは」
「亡くなりました。心臓発作でした。祖父の治司(はるじ)も八年前にガンで」
「そうですか……」
残念そうにつぶやいて、君塚先生は眉を下げた。
お互い無言で祖父母の死を悼む時間があって、私はさっき受付の女性が持ってきてくれたお茶を一口啜った。温かい液体が喉をスッと落ちていく。
「常連さんには何人かにお知らせしたんですけど、なにぶん葬儀はひっそりと、と生前祖母から言われてましたので」
君塚先生が憔悴した様子でずっと口を閉じているので、私はなるべく暗くならないようにゆっくりと話した。