魔法使いは透明人間になりたい
季節はひとつ、進んでいった。
色々あった夏休みは終わりを迎え、吹く風に甘い金木犀の香りが混じり始めたころ、いよいよMerakの3度目のツアーが幕を開けた。
初日の昼公演、天気は快晴で、ハケでさっと絵の具を塗ったような雲が浮かんでいる。絶好のコンサート日和だ。
入り口でチケットを発券する。中に入るまで見ないようにして、真衣とくっつきながら裏返す。そこに印字されていたのは、アリーナ。
「うわ、アリーナだ!」
「ねえ、3列目って近いの?」
どれくらい近いのかはよくわからないけれど、アリーナの中に入って表示通りに進んでいくとさらにびっくりした。掲示されたブロックに向かい、座席番号を探すと真衣が固まった。センターステージ近く、外周のほとんど隣だった。
「え……」
「わーお」
今まで見てきた映像だと、ここでファンサをしていたような。横を向くとすぐに外周で、前を向くと会場のど真ん中にあるセンターステージが結構近い。
「神席すぎる……」
「やば……」
「巴音。あんた初日当てるしこの席だし、なにしたの?」
「まあわたし、生きてるだけで人を幸せにしてるから」
なんて軽口を叩いていたけれど、内心それどころではなかった。真衣の口ぶりと家にあるグッズの種類から見るに、”わたし”は何度もコンサートに来ていたんだろう。でも、いまのわたしにとってははじめてのコンサートなのだ。
こんなに良い席で、これからの2時間半耐えられるのだろうか。よく近くに来すぎたりファンサをもらったりして倒れる子がいると言うが、そうなる気持ちもわかるような。
昨日は緊張して眠れなかった。今日のことを考えると、胸が締め付けられるような気分になって、寝ては起きてを繰り返したせいだ。楽しみなのに、少しだけ不安を感じる。どうしてかはわからない。
ザワザワと声が反響する。
会場ではおしゃれした色んな人たちが、蛍光の紙で作った黒いうちわを持って、わたしたちと同じようにソワソワと落ち着きなく過ごしていた。
「セトリ気になる」
「まあアルバム中心じゃない?」
今回は、セカンドアルバムを引っ提げてのツアーだ。予約して複数形態全部を手に入れてからは、ほとんど毎日聞いている。歌詞も何となく覚えた。
「そろそろうちわ出しとこうか」
「うわ、もう15分前か」
カバンからうちわを3つ取り出す。公式グッズのうちわと、新しく作った『佑』のうちわ。それから家にあった『魔法かけて』のうちわだ。
「どう? 周りに佑推しいる?」
「ええ、どうだろ」
まわりに座る人たちを見てみるけれど、佑のうちわを持っている人はあまりいなかった。ぱっと見た感じでは、新堂凛斗と土井晴太のうちわを持っている人が多かった。
「やっぱ現場は晴太推し多いね」
「だねー」
とりとめのない会話をしていると、注意事項のアナウンスが流れ始めた。それから間も無くして、照明が消えた。
「うわ!」
「来る!」
客席から歓声があがり、暗がりのなかに赤、青、ピンク、緑、黄色の穏やかな光が浮かび上がる。わたしと真衣も席から立ち、真衣は黄色を、わたしはピンクのペンライトをつけてその声に混じる。
オーバーチュアが流れ、中央のステージから、5人のシルエットが浮かび上がる。
ーー来た。
1曲目の前奏が始まると、パッとライトがメンバーを照らし出した。思っていたよりも近くにいて、キラキラの衣装と笑顔のメンバーがいた。
ーー佑が、いる。
あそこに……ステージに、佑がいる。
そう思うと、心の底から安堵と嬉しさと、ほんの少しの寂しさが湧きあがった。自分でもどうしてそんな気持ちになるのかわからない。でも、佑が歌って踊っている姿を見ると、鳥肌が立って仕方がなかった。
気がついたら、涙が出そうになっていた。滲んでぼやける視界の中で、必死に佑の姿を捉える。薄い青色の衣装は丈が長く、踊れば踊るほどにきらりとひらめく。
……佑だ。
そこにいるのは紛れもなく、松永佑だ。
どうしてあの映像を見たとき、消えそうだなんて思ったんだろう。いまはそんなこと微塵も感じさせない。それほどまで、佑は輝いていた。
メンバーと目配せしてニヤッと笑って、踊りも歌も、ひとつひとつ大切そうに噛み締めて歌う姿は、今まで見てきたどの動画ともコンサートの映像ともちがった。
あのライブDVDとは違って、消えそうな儚さなんてまるで感じなかった。間髪入れずにそのままアルバム収録曲を何曲か歌ったあと、木林翔平が一歩前に出る。
「みなさーん! 盛り上がってますかー!」
ペンライトとありったけの声を出して、わたしたちはそれに応える。
「ありがとうございます! めーっちゃ楽しいです!」
「今日一日、よろしくお願いしまーす!」
佑が新堂凛斗と肩を組んで、そう叫んだ。
それからまた曲が流れ始める。
センターのステージを飛び出して、メンバーが外周に駆け出した。佑と凛斗は右側に走り、歌いながらファンに手を振っている。
「波音、うちわ!」
「やばい、近い!」
指定の位置にきたのか、佑はほとんどわたしの目の前で立ち止まった。
ドキンと心臓が鳴った。
……近い。すぐ、そこにいる。
テレビや動画で見たままの姿をした松永佑が、ここにいる。
終始楽しそうに笑顔で、ファンサうちわに応えていく。うさ耳、撃って、ピースして。
その瞬間だった。
松永佑と、目が合った。
「え……」
サッと音が消えた。他にもたくさんいるはずの人が視界から消えて、わたしと佑だけになる。
ーーわずかに、松永佑が目を見開いた気がした。
『魔法かけて』。
そのうちわを少し振ると、驚いた表情のまま、佑はマイクを持っていない右手でわたしを指さして、それから人差し指を、二、三度振った。