この婚約、なかったことにしてくださいっ!!
 余計なことを。人の知らないところで何を言ってくれているの。

 確かにわたしは、ちょっと……いや、かなり働き過ぎな社会人生活を送っていた。
 いたけれども! それと駿人さんは関係ない。

「ナニ勝手にひとの家の祖父とやりとりしているんですか」

「メル友だから。なんか今俳句にはまっているらしくて、色々と新作を送ってきてくれるんだよ。そのついでにサヤちゃんの近況も書いてきてくれる」

「ひ、人のプライバシーをなんだと……」
「俺も心配するくらいにはブラックな企業だったのに、よく辞めたね。というかよく洗脳からとけたね」

「いろいろあったんです」

 わたしは水を一口飲んだ。
 駿人さんが先を促してきたから、再度口を開く。

「先輩が妊娠したんです。たしか、三十二歳で」

 確かにわたしの入社した会社は忙しかった。二十二時を越えての貴社は当たり前。むしろ早い方で、大抵は終電間近に慌てて会社を出るような生活だった。

 前々からちょくちょく友人たちからも言われていた。「それってブラックじゃない?」って。

 そういうときわたしは「そんなことないよぉ~」と、にへらっと笑って受け流していた。

 毎日朝から晩まで馬車馬のように働いて、休日は掃除と洗濯をして六畳のワンルームの部屋でぼおっとしていたらあっという間に夕方になって、友人と会う機会もめっきり減っていった。

 そんなときだった。先輩が妊娠した。わたしは純粋に喜んだ。

 女性として、人間として妊娠出産は慶事だと思っていたし、それは今でも変わらない。しかし、産休と育児休暇の取得について上司に相談をしたその先輩は社長に怒鳴られた。

「この忙しいのに、妊娠だと? ふざけるな。ただでさえ人手不足なのに、育休だと、おまえ舐めているのか。半人前のくせに一丁前に権利だけ主張しやがって。おまえみたいなやつはまず反省文を書け! 妊娠して申し訳ございませんでしたってな」とかなんとか。

 社長の声はワンフロア中に響いた。
 設立十年目の会社は社員数もそこまで多くなく、社長も自由にオフィス内を闊歩するようなところだった。先輩は反省文ではなく辞表を叩きつけて辞めていった。怒鳴られた翌日のことだった。

「そのやりとりを結構間近で見ていて。それで目が覚めたっていうか、ひいちゃって……。あ、わたしなんだかやばい会社にいるのかもしれないって思い始めたというか」

 本当にさぁっと波が引いていくみたいに仕事のやりがいだとか会社への未練が無くなった。先輩も退職日にはすっきりとした顔をしていた。ちなみに先輩が退職をしたのが去年の十一月。

 わたしが辞表を提出したのが年が明けた二月。実際に受理をされたのが三月末で、退職をしたのが四月末。

「たしかに、二十代後半で会社辞める女性社員、ちらほらといたんですよね。社長はこれだから女は、とか言っていたけどあれって結局あの会社で子供産んで育てるビジョンが見えなかったってことなんだよなあって思えてきて」

「なるほど。ブラックだね」

「わたしだって一応結婚願望とかあるんです。あそこにいたらそういう未来まで無くなっちゃうって思って」
「ふうん。サヤちゃん結婚願望あるんだ。じゃあ……これは必要ないよね」

 と言って、駿人さんはわたしが作った書類をビリビリと破いたのだった。

 * *


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