エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む

 知らない国でお金もなく、おばあさま以外、頼れる人もいない。育ての祖母のおかげで日常的な英語はかろうじて話せるものの、右も左も分からないこの異国の地で、私は母に生かされていた。

 そんなモヤモヤを抱えている私にとって、図書館に行くわずかな時間が唯一の楽しみとなっていた。そこで綾城さんに声をかけられたのが発端だった。

「筒井さん」

 閲覧台で本を読んでいた私は、苗字を呼ばれ肩を叩かれ、慌てて顔を上げた。そうして首を傾げる。

「綾城さん?」

 既にこのとき、綾城さんはレストランの常連で、私の名札から名前まで覚えてくれるほどになっていた。姿勢良く、綺麗な箸づかいで食事をする様子に同じ日本人ながら感心してしまう。私だって祖父母から丁寧にマナーを躾けられた口なのだけれど。

 一見するとクールで、まるで鋭い刀のような雰囲気の彼に当初こそ少し気おされていたけれど、しばらく接客しているうちに打ち解け、時折会話をする仲になっていた。天気のことや日常のささいな出来事など、本当に世間話の域を出ないものだったものの。

 しかしそうなってみれば、彼はクールである一方「面倒見の良い近所のお兄さん」のような性格をしていて――気がつけば、彼と会えるのを心待ちにしている自分がいた。恋というよりは、ほのかな憧れ――それこそ、近所のお兄さんに憧れる少女のような。

 それにしたって、一食三千円はくだらないレストランだ。そこに毎日のように通ってくるのだから、おそらくは大企業の社員さんかなにかだろう、とあたりはつけていた。実際、身に着けているスーツも靴も、シャツのボタンに至るまで一流の品のようだったから。

「こんにちは。あまりにも集中しているようだったから、声をかけるか迷ったのだけれど」

 普段のピシッとしたスリーピースのスーツ姿からは想像できないような、シンプルなTシャツとジーンズ姿にこっそりと見惚れてしまいつつ首を横に振る。

「っ、いえいえ、そんな。全然声かけてください!」

 私はぱたん、と本を閉じた――タイトルは『ロミオとジュリエット』。言うまでもなく、ここイギリス出身の劇作家、シェイクスピアの名作だ。

「シェイクスピアが好きなのか?」
「実は」

 私はそっと息を吐くように答えた。

「とても」

 かつての私は、いつか大学でイギリス文学を専攻することを夢見ていた。
 へえ、と彼は軽く眉を上げた。

「じゃあ、あそこは行った? アポン=エイヴォン」

 ストラッドフォード=アポン=エイヴォン。ロンドン郊外にあるその小さな街は、なにを隠そうシェイクスピアの生誕地。生家や史跡が残る、シェイクスピアファンにとっては聖地と言ってもいい場所だ。

「あ、それが……まだで。というか、ロンドンを出たことがなくて」

 苦笑しつつ答えると、綾城さんは不思議そうに口を開く。

「学生じゃないのか。 てっきり大学院生――留学生かと」
「あ、違うんです……ええと、義祖母が倒れて、車椅子になってしまって、それで。もう歩けるんですけど……こちらに来て、もう七年になります」
「そうだったのか。大変だな」

 そう返しつつも彼がそこまで意外そうでもないのは、私の顔立ちが西洋の血が混じっていると一目で分かるものだからだろう。

「今日は、そのお祖母(ばあ)さんのお世話はしなくていい日なのか?」
「はい、出かける用事もないので、一日ゆっくりしておいでと言われていて」

 時折、おばあさまは私に「お休み」をくれる。

『いつもわたくしの世話と家事ばかり。少しは外へ行っておいで。アルバイトのお金はあるんでしょう? お小遣いはいる?』

 そう言ってはくれるけれど、給料は母が管理する口座に振り込まれているから自由に使えるお金なんて一ポンドだってなくって……とはいえ、おばあさまに心配もかけたくなく、図書館で本を読むのが「お休み」の日の日課になっていた。それならばお金もかからない。

 綾城さんはじっと私を見下ろしてなにか考えたあと、ふっと唇を緩めた。
 その仕草に思わずどきん、として顔から目線を逸らす。逸らした先は彼の男性らしい喉元で、妙にときめいてしまってまた目線を上げた。
 視線が絡む。

「なら、今日一日の時間はあるってことか」

 まだ午前中だから、と綾城さんは腕時計をチラリと見る。いつも着けている金属製のものではない、カジュアルでスポーティなモデルだった。
 ……なんで私は綾城さんのそんな細かいところまで記憶しているのだろう、と自分にこっそりと呆れつつ、彼の言葉に首を傾げた。

「ええと、家族も遅くなるらしいので、はい」

 ララは大学のこと、母はなにかしらのパーティー、仕事で不在がちの義父は、今日も出張だそうだった。

「よし、行こうか」

 綾城さんは少し悪戯っぽく笑う。大人の男の人!って感じの彼がそんな少年みたいな笑い方をするなんて思ってもいなかった。
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