エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む

 思わず目を瞠(みは)っていると、綾城さんはするりと私と手を繋いでしまう。大きな、少し硬い男の人の手!

「わ、わっ、綾城さんっ」
「悪い、けど逃げられたら困るから」

 綾城さんは澄ました声でそう言って、ずんずん手を引いて歩く。煉瓦造りの図書館のアンティークじみた――というか、実際にアンティークなのだろう――どこか教会をイメージさせる意匠を視界の隅にとらえつつ、彼の広い背中を見つめ、ただ手を引かれる。

 行こう、ってどこに? まさかアポン=エイヴォン? どうして?
 心臓の音がうるさい。心臓だけ別の生き物になったみたいだ……!

 舞台俳優のように華がある彼に手を引かれる私を、チラチラと行き交う人が見ているのが分かる。

 端正で背も高く精悍な彼と、メイクもしてない、日本人としても小柄でちんちくりんな私。シンプルな服装なのに上質なものだと見て取れる彼の服と、おばあさまが若い頃に着ていたというヴィンテージな白いワンピース、それに似合わない、履き古したスニーカーを履いた私のことを。つい気後れして、俯いた。

 図書館の駐車場で、綾城さんは助手席のドアを開けてくれる。白のスポーツセダンは、イギリスの老舗メーカーのもの。モゴモゴお礼を言いながら、革張りのシートにこわごわと腰掛けた。ちなみにイギリスは日本と同じ左車線なので、助手席も日本と同じ左側だ。

 急いでシートベルトをしなきゃと焦る私に、綾城さんがすっと一枚、名刺を差し出した。

「誘拐犯だと思われても困るから」

 彼が浮かべるのは、飄々とした微笑み。

「あ、いえ、そんな……」

 私は名刺に目を落とす。そして目を丸くして彼を見上げた。上質な紙に、「外」の字を崩したという黒丸のシンボルマーク。

「外務省、日本大使館……? 外交官……なのですか?」
「まだ入省四年目の新人だよ」

 ……ということは、彼は私よりひとつかふたつ、年上くらいなのだろう。

 彼はものすごく自然に私のシートベルトを着けてしまう。慌てて頭を下げると、綾城さんが至近距離で微かに笑った。
 口から心臓が飛び出そうだ。頬が熱い。
 そんな私に特に大きな反応をすることなく、綾城さんは自分のシートベルトを締めてエンジンをかけた。
 ああ、女性の扱いに慣れてらっしゃる……のかな?
 私はぽかぽかとする頬に両手を当てて少しでも熱を逃そうとしつつ、車からの風景を眺める。歴史を感じさせる石造りの建物がずらりと並ぶ大通りを、心地よい運転で進んでいく。


 イギリスという国は、古いものを大切にする。新築の一戸建てより、歴史あるアパートのほうに価値を見出す。おばあさま曰く「新しかったら壊れるかもしれないじゃない」。

 その感覚はあまり日本人にはないものだと思う。イギリスでは、古くて残っているものイコール丈夫なものなのだ。

「ロンドンは見て回った?」
「いえ、図書館と、あとは公園くらいですね」

 なんせ無一文なのだ。……と、気がついて血の気がひく。というのも、車が有料道路へ入ったからだ。一体いくらかかるんだろう!?

「っ、綾城さん。申し訳ないのですが、私、いま持ち合わせがなくって……」

 頭の中がぐるぐるしてくる。ひとりで大慌てしている私に、綾城さんは眉を下げて笑った。

「あは、俺が誘ったのに?」
「で、でもそういうわけには」

 ふむ、と綾城さんは前を向いて運転を続けながら口を開いた。

「じゃあこうしよう。元々俺は今日、ドライブに行こうとしていたんだ」
「え、ええっ」

 そんなとってつけたような理由!
 目を剥いていると、本当に楽しげに彼は言う。

「いいじゃないか、付き合ってくれ。たまには遠出したい。職場以外での知り合いなんか、君くらいしかいないんだ」

 そう言われると、あまり遠慮するのも申し訳なくなってしまう。

「えっと、……じゃあ、今更ですけれど。一日、よろしくお願いいたします……」

 ぺこりと頭を下げる。綾城さんは「律儀だな」とほんの少し、目を細めた。

 そこから到着までの二時間、私たちは飽きることなく会話を続けた。

「君はよほどおばあさんが好きなんだな」
「そうなんです。いつも優しくて……」

 なぜだろう。
 私は彼のことが知りたいし、私のことを知ってもらいたい。その感情の由来がどこにあるのか判然としないまま、車は有料道路を出て、大きな石造りの教会近くの駐車場に止まった。聳え立つ教会は、魔法使いが出てくる映画のワンシーンのよう。

「……もしかして、ここって」

 キョロキョロとあたりを見回す。間違いなく何度も夢見たアポン=エイヴォン、シェイクスピアのお墓がある教会だ!

「まずは墓参りかなと」

 喜びと緊張で一瞬車から降りるのも忘れてしまった私は、綾城さんの声にハッと横を向く。いつのまにか彼は車から降り、助手席のドアを開けてくれていたのだった。
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