エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む

「わ、わあっ、すみません!」

 慌てて降りようとする私の手に、綾城さんがそっと触れた。そうしてエスコートされるように車から降りる。頬はひどく熱いのに、手の先が緊張で冷たくなっているのが分かった。
 その指先を、彼がきゅっと握る。

「冷たいな」

 そうして言葉を返す間もくれずに、指先ごと彼の大きな手のひらに握り込まれてしまう。

「少しは温まるだろ?」

 綾城さんが私を見下ろして――それからほんの少し、眉を寄せた。

「もちろん、嫌なら……」
「っ、嫌じゃない、嫌じゃないですっ」

 思わず前のめりになりながら言う。自分でもどうしてこう必死なのか分からないけれど――この温かな手のひらを、どうしても離したくないのだった。


 お墓参りのあとはシェイクスピアの生まれた家、資料館や娘たちの家など、約五百年前から大切に保存されている建物や資料を見学した。私はとっても幸せで大満足なのだけれど、綾城さんはどうなのだろう。

 ――と、シェイクスピアの妻、アンの生家の庭を散策しながら彼の顔を見上げる。とたんに、ばちりと目が合った。想定外すぎて逸らすこともできず、お互い無言になりしばらく見つめ合う。

 ざあ、と爽やかな風が吹く。緯度の高いこの国では、真夏でも肌寒い日があるくらい。それでも夏の陽射しは生き生きと生命力に溢れ、植物たちは緑を濃くしながらその光を反射し風に揺れていた。

 綾城さんがそっと私に手を伸ばす。男性らしい硬い指先が私の頬をくすぐったかと思うと、そっと髪の毛を掬い上げ耳にかけた。

「あ……」

 すっと綾城さんは目を逸らし、ふと思いついたように言う。

「The course of true love never did run smooth」

 目を瞠る私に、綾城さんは肩をすくめた。

「だったかな?」

 そう言われて目線の先を見ると、そこにあったのは『真夏の夜の夢』の登場人物、妖精の女王ティターニアの銅像だった。

「そうです」

 私は頷く。『真夏の夜の夢』作中で、結婚を反対されたカップルの台詞だ。「真実の恋路は、決して平坦ではない」……か。

 綾城さんはじっと私を見て微かに笑う。

「個人的には平坦でいいな。紆余曲折なんてなくていいから隣で笑っていて欲しい」

 まるで私に言われた台詞のように思えてそんなはずないとわかっていつつ必死で平静を装い唇を上げる。

「綾城さん、モテそうなので刺激の強い恋愛、色々されていそうです」
「そんなことない。一途だよ俺」

 やや憮然として言う綾城さんに、私は慌てて眉を下げた。

「あ、決して遊んでそうとか、そんなことを言いたかったわけじゃ」
「そっか」
 呟くようにそう言って、さらに小さな声で彼はなにかを呟く。首を傾げると、綾城さんはふっと笑った。

「いや、頑張ろうと思ってさ。ところで筒井さんはアレだな、モテて好かれているのにそれに気がつかないタイプだろ?」

「ええ? そんなことないですよ、モテたことないですし」

 綾城さんは探るような目で私を見る。

「アピールしても延々と気がつかないタイプだ、絶対」
「まさか。アプローチされたら気がつくはずですし、そもそもされたことないですよ」

 真剣に反論すると、綾城さんは思い切り眉を寄せて空を仰いだ。釣られて空を見る――どこまでも続きそうな、水彩のような色彩の青空。ぼけっと見惚れていると、綾城さんが噴き出した。視線を彼に戻す。
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