エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む

 綾城さんとロンドンの中心部にあるスーパーに来たのは、その数週間後のこと。季節はすっかり夏の初めへと変わっていた。

 日本の食材が揃うというよりは、アジア全体の食料品を扱っているお店。日本でよく見かける数百円の食材がどれもかなりの割高になって売られているイメージだ。

 顔見知りの店員さん、リアムに手を挙げられ、ぺこりと頭を下げる。日本フリークなのだという彼とは、ここに買い物に来るたび会話する仲だった。短い茶髪がよく似合う、背の高い男性だ。年齢までは知らないけれど、多分同年代……と、隣で綾城さんがなぜかムッとした声で言う。

「ここには良く来るのか?」
「あ、はい。ええっと、母がよく和食を食べたがるので……ヘルシーだからって」

 綾城さんが眉を一瞬だけ寄せる。なにか考えたかのように……と、ハッとした。お金がないはずの私の家族が、こんなお店で買い物をしていたら変だ。バイト代は全て家に入れているのは綾城さんには伝えていた。

 ちなみに買い物は全て家族用のカードで購入することになっている。少しでも請求が予定より高いと何時間も詰(なじ)られるので、安い食材を探しロンドン中を歩き回るのが常のこと。

「詮索はしないけれど」

 綾城さんが慎重な声音で言い、私をじっと探るように見つめた。慌てて棚の味噌のパックを手に取った。

「お、おばあさま……義祖母が」

 声が変になっていないかを意識しながら口にする。

「義祖母が、お味噌汁を作ってくれたことがあるんです。ここに来て一年くらい経った頃かな、ホームシックになってしまって」

 日本には、きっともう帰れない。
 華やかな母とララの暮らし。私はそのためだけに呼ばれたと嫌でも理解した頃。

「義祖母、お出汁を取らなかったんです。その上味噌をぐつぐつ煮込んで、ちょっと苦くなって――『変ねカノコ、あなたが作ってくれるものと違うわ』ってキョトンとして言ってて。義祖母はお嬢様育ちの人で、滅多にキッチンなんか立たないのに、私のために……」

 言いながら鼻がツンとする。
 色々誤魔化すために話し出したことなのに、どうしてか思い出して泣きそうになる。
 綾城さんがぽん、と優しく何度も私の頭を撫でた。

「一度お会いしたいな、君のおばあさま」
「……素敵な人ですよ」

 なんとかそう答えつつ、カゴに味噌のパックを入れた。なんでも買っていいと言われてはいるけれど、本当に必要なものを吟味して買わなければ……と思っていたら、ぬっと私の前に人が立った。顔を上げると、件の店員、リアムだった。

 リアムは秀でた眉を思いっきり寄せて綾城さんを睨んでいる。Tシャツにジーンズ、それにお店の名前が入ったエプロンを着けていた。

「リ、リアム?」
「カノコ、こいつは君のなんだ?」

 私は答えに窮する。知り合い? 友達? なんなんだろう?

「君はすごく騙されやすいからオレは心配なんだ」
「だ、騙されてないよ。リアム、どうしちゃったの?」

 私が戸惑って眉を下げていると、綾城さんが、私に向けるのは全く違う――最初に出会った頃のような、磨かれた刀のような目つき――で、リアムを一瞥した。
 もしかして、私がリアムに困らされていると勘違いさせてしまった……?
 慌てて綾城さんに向かって顔を向けたけれど、私が口を開く前に彼はリアムから私を守るように一歩前に出た。

「君こそなんなんだ? やけに親しそうだけれど。彼女のことが好きなのか」

 ストレートな物言いに驚いて綾城さんとリアムをキョロキョロと見比べる。ふたりとも、なんでそんなに怒っているの? ていうか、リアムが私を好きだなんて!

「カノコは妹みたいなもんだ。詐欺に遭っているところを助けて以降、な」
「詐欺?」

 綾城さんの視線に、私は身を縮こませた。

「お恥ずかしながら……小学生くらいの子に、家に帰るお金がないので助けて欲しいと言われて」
「平和な国から来た証拠だよカノコ、あいつらそれで小遣い稼ぎしてるんだ」

 綾城さんはフッと肩から力を抜き口を開いた。

「聞いた? 妹みたい、だとさ」
「へ? あ、はい」

 リアムは確かに、イギリスでは唯一の友人、なのかもしれなかった。妹のように大切にしてくれている、とまでは思っていなかったけれど。

「妹。分かった? 筒井さん。この彼にとって君は妹って感じなんだって」
「え、聞き取れてましたよ……?」

 英語が聞き取れていないと心配されているのか、と眉を下げると、綾城さんはリアムに向き直りよく分からないことを言う。リアムに合わせたのか、割と砕けた口調だった。

「俺は本気で頑張ってるところって感じ、かな」
「ふうん」

 リアムはすっと目を細めたあと、私を向いて少し早口に言う。

「カノコ、なにか変なことをされそうになったらオレに言うんだぞ」
「あは、なにそれ」

 思わず笑ったとき、リアムは他のお客さんに呼ばれて慌ててレジへ向かっていった。

「……彼、イケメンだな。かっこいーな、と思ってしまっても仕方ないな」
「? リアムですか? ええっと、そうですね」

 といっても、お店で顔を合わせるくらいしか付き合いはないのだけれど。

「ふうん」

 そう言って綾城さんは私の手をぎゅうっと握った。彼はよく手を繋ぐ人だけれど、そこにどんな感情があるのだろう?
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