エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む
そうしてスーパーを出て、次のお店に向かったときのことだった。
お店の近くの路上、そのパーキングエリアに車を停め、私は助手席から一足早く歩道に出た。
と、背後から大きな声が聞こえた。ばっ、と振り向くと大きな白人の男性がナイフを振り上げたところだった。
「え?」
情けないほど、気の抜けた声しか出なかった――ナイフの刃先が夏の日を反射し、その生気に満ちた日差しに似つかわしくない、おどろおどろしい光を放っているように見えた。
叫ぶことすらできない。
ただ目を見開いて、なにかを叫んでいる男の人の血走った目を見つめていた。身体が動かないのが恐怖ゆえのものだとようやく気がついたとき、私の震える唇から零れたのは、綾城さんの名前だった。同時に私を呼ぶ大きな声が響く。
「夏乃子!」
声のほうに目をやる。思わず目を丸くした。運転席にいたはずの綾城さんが、車の屋根の上にいる――なんで? でもそれは一瞬で、たんっ、と雰囲気に似つかわしくない軽快な音と一緒に、次の瞬間に彼は屋根を蹴りつけ宙に飛び出していた。
「Keep your hands away from my lady!」
信じられない言葉と一緒に、綾城さんのスニーカーのつま先が男が振り上げた拳――大ぶりのナイフの柄を握るその手――を蹴り上げる。ナイフは半円を描き飛んでいき、近くの商店の壁に当たって跳ね返る。近くにいた人たちが悲鳴を上げてそれを避けた。
そのときには、男は綾城さんに煉瓦の歩道にうつ伏せに押し倒され、腕を背中に拘束されていた。あたりの人々が「ニンジャ」「ニンジャだ」とわいわい集まる中、おっとり刀で駆けつけてきた警官が綾城さんの代わりに怒鳴りつけつつ男に手錠をかけ起き上がらせた。
「夏乃子」
ふらり、と綾城さんが近づいてくる。私はのろのろと彼を見上げた。きちんと整えられた髪の毛が、少し乱れていた。と、ぎゅっとかき寄せるように抱きしめられる。
「大丈夫、だったか」
声が震えている。
私はほとんど反射的に、彼を抱きしめ返した。胸の中で花が咲いたと思った。ちょっとずつ色づいていった恋の蕾が、ばっと開いた。
もうあとは、散るだけ。