エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む
一週間のみであるロンドン滞在中に伺いたい、と要請していたこともあり、彼女から連絡が来たのはその僅か二日後のことだった。
ロンドンの中心部からは僅かに外れた、高級住宅街――白い漆喰が目に眩しいタウンハウス、そのひとつが彼女たちのロンドンでの住宅らしい。郊外の領地に本宅があるそうだけれど、そちらに行くのはバカンスのときくらいだ、とララ嬢は誇らしげに言った。
「あらあら! どうぞいらっしゃいませ」
俺を出迎えたララ嬢の母親に、俺はやはり驚きを隠せない。夏乃子そっくりで――信じられない。本当に夏乃子はララ嬢の姉妹ではないのか?
上の空になりつつ、九十八%が自慢話の彼女の話を興味深げに聞くふりをする。
そのうちにターナーの絵、だという……しかし素人の俺が見ても一目で贋作と分かるそれを見せられた。苦笑をこっそり浮かべていると、紅茶を用意しにいった母娘の会話が微かに聞こえてきた。
「ララ、いいじゃない。イケメンだし、エリートよ。ここまで来るってことは、あなたが気にいったからに決まってる」
「そう? やっぱり、そうかしら」
「そうよ。あの馬鹿息子なんかやめて、綾城さんになさい」
あまりに底の浅い会話に、果たして現実のことなのか明け方に見る悪夢なのか見分けがつかない。
それにしても、あの母娘は成金趣味だ。
ああいうのは、イギリス社会では鼻つまみにされる。今どき、「貴族」を鼻にかけているのも――むしろひけらかすのは忌避されるというのに。「階級」なんて言葉すらも避けているほど。
そもそも貴族ならば、慣習に乗っ取りあくまでさらりと邸内を案内するところ、まさか家を自慢げに案内するだなんて。そんなことは上流階級ではまずあり得ない。
ふ、と息を吐き出す。
他人の空似、だったのだろうか?
だいいち、夏乃子は明らかに経済的に困窮していた。こんなタウンハウスに住んでいたわけがない。
「おばあさまのお下がり」だというヴィンテージ物の洋服は上質で、彼女によく似合っていたけれど、履いている靴はいつもボロボロだった。失礼かもと思いつつ靴をプレゼントすると、大きな目を丸くして喜んでくれたっけ。
押し付けがましいかも、と我慢したけれど、もっと色々プレゼントすれば良かった。
服も、靴も、ネックレスも、時計も、――指輪も。あげたいものはたくさんあったのに。
……と、ふと絵画のひとつに目が留まる。隅のほうに、仕方なしのように飾られているそれ。
二十代くらいの白人女性が描かれている、その絵。着ている服が――。
「夏乃子」
思わず呟いた。
夏乃子がよく着ていたワンピース、「おばあさまのお下がり」のワンピースだ……!
『既製品ではなくてオーダーメイドらしくって、だから何十年経っても丈夫なの、っておばあさまが』
夏乃子の声が耳朶に蘇る。
あのワンピースは、世界に一着だけのもの……!
「どうされました?」
舌に残る安い人工甘味料のような声に、はっと意識をそちらに向ける。ララ嬢が母親と紅茶の乗ったトレイを両手に、薄っぺらい笑顔を浮かべて立っていた。
「いえ……あの、絵は」
あの絵は誰なのだ。
声は震えていないだろうか?
俺の質問に答えたのは母親のほうだった。
「ああ……夫の母ですの」
すっと息を吸った。ひゅう、と音がしたような気がする。――夏乃子の〝おばあさま〟だ。
病気をした彼女の介護のために日本からやってきた夏乃子。今どきスマートフォンさえ持たず、いつも質素だった。レストランで働いているのは生活費のためだと言っていた……。
頭の中で色々なピースがつなぎ合わされていく。全部こいつらに搾取されていたのだとしたら?
夏乃子の青春も、給料も、その誠意さえも。
おそらくそれは、正しい予想だろう。
夏乃子がなぜそんな扱いをうけていたのかは分からない。だが、夏乃子は家族に搾取され続けていたのだ。
深すぎる怒りというものは、人を冷静にさせるのだと初めて知った。
「お祖母さまは、どちらに?」
少し声が硬い。意識して表情は柔らかく努めた。母親は不思議そうな顔をしたが、特に疑問を挟むことなく答えた。
「それが……何年か前に日本に旅行へ行ってから、音沙汰がなくて。気ままな人ですから、滞在を楽しんでいるんだと思いますけれどね」
「そうですか」
答える声が上擦りそうになる。