エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む
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ララが日本に留学する、と突然連絡が来たのは愛息子の慶梧が一歳二ヶ月になったばかりの夏の日のことだった。おばあさまのふたつ折りの携帯電話に留守電が入っていたのだ。
「信じられない。なにを考えているのかしら」
ブツブツと台所でお米を研いでおばあさまが言う。私は慶梧のおむつを替えながら苦笑を返した。
「ララはいつも気まぐれだから……」
「なにか連絡があっても無視するのよ、カノコ。もう会う必要なんかない!」
気丈に眉を上げ言い切るおばあさまに、私は驚きを隠せない。
日本に来て一番驚いたのは、このおばあさまの回復だったかも……。車椅子で、儚げにしていたのが嘘みたい。
もう杖も使っていない。
私が頷くと、おばあさまは安心したように炊飯器のスイッチを押した。
……まさか、おばあさまが炊飯器を使えるようになる日が来るだなんて。
「はい、おむつ終わり。よし」
おむつを替えるより遊びたい慶梧のおしりを優しく叩くと、慶梧はとてててて……と畳の上を走っていく。アヒルみたいな可愛いお尻! 濡れ縁へ続く障子を「ん!」と小さなふくふくとした指でさす。
「はいはい」
カラカラと大きなガラス格子の掃き出し窓を開けると、濡れ縁の向こう、向日葵を始めさまざまな植物が植えられている庭でおじいちゃんが草むしりをしていた。東京とはいえ二十三区外、なんならちょっと田舎の雰囲気さえするこの町では平均的な庭付きの一戸建て。大きな麦わら帽子を微かに上げて、こちらに気づいたおじいちゃんは目尻を下げた。
「お〜、慶梧。どうした。じいちゃんと遊びたいのか」
八月の日差しは、ロンドンのものと全く違う。もはや亜熱帯に片足を突っ込んでいる東京の夏――突き刺すような太陽の光と、輝く青空と、そこに主張する入道雲と、降り注ぐ蝉の声。慶梧はその明るい世界で、おじいちゃんの言葉が分かったのかそうではないのか、右手を上げてまだかなり拙い発音で「ぁいっ!」と大きく笑った。
「そうかそうか〜、ちょっと待っとれ、プール出してやろう」
「お水遊び用のおむつに変えようか」
替えたばっかりだけど、と慶梧を抱いて部屋に戻り、おむつをまた替えた。
タープを庭に張り、その日陰に小さなビニールプールを出してもらった慶梧はおじいちゃんとはしゃぎながら遊んでいる。
濡れ縁に腰掛けそれを眺めていると、横におばあさまが座った。手にはアイスキャンディがふたつ。
「わ、ありがとうございます」
「暑いわね、本当にニホンは暑い」
そう言うおばあさまは、幸せそうに目を細めた。蝉の求愛は姦(かしま)しく、でもそれがやけに愛おしいのは、きっと今がとてつもなく幸福だからだろう。