エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む
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白夜、とまでは言わないらしい。夜中には陽が落ちるから――。
とはいえ、夏のロンドンの午後八時はまだまだ明るい。もうじき夕方のように空はオレンジがかるだろうけれど……と、私は窓から空を見上げ目を細める。
「カノコ、どこ?」
年齢を重ねた、しかし優美な声に顔を上げる。磨き込まれた――というか、私が磨き込んだ――アンティークの床を足速に声の主の元へ向かう。
「おばあさま」
「ああカノコ、そっちにいたの。おいで、可愛いわたくしの孫」
書斎で一冊の本を手に、気品に満ちた笑みをたたえるのは、ここ数年私がお世話をしている未亡人のおばあさま、ベアトリス。
母の再婚相手であるアンドルー氏の母親だ。
母が嫁いだ先が伯爵家であったため、現在はイギリスの大きなお屋敷に住んでいる。
二十一世紀をこえて久しい現在もなお「貴族制度」が残るイギリスにおいて、爵位は現在、ひとり息子であるアンドルー氏へ受け継がれていた。
つまり、私は母の連れ子にあたる。
もっとも、連れ子といったって子供なんて年齢じゃない。今年私は二十五才になるのだから。名前だって実の父方の姓である「筒井夏乃子」のままだ
「カノコ、これよ。昨日わたくしが言っていた本。シェイクスピアの稀覯本」
「おばあさま、探してくださったのですか」
思わず感激して声が潤む私に、おばあさまはゆったりと微笑んだ。こつ、と杖で床を突く音がした。
「無理されてはいませんか」
「もうすっかり平気よ。まさか歩けるようになるとは思わなかったわ。改めてありがとう、カノコ」
「そんな」
そう答えつつ、最初におばあさまと会ったときのことを思い返す――病気で、歩けなくなったおばあさま。
車椅子に乗り、冷たく私を無視していた彼女が、リハビリが進むにつれて少しずつ心を開いてくれた。
そもそも、私は歩けなくなったおばあさまの介護のため、はるばる日本は東京の隅っこから、九千五百キロ以上離れたここロンドンまでやってくることになったのだ。