エリート外交官は別れを選んだ私を、赤ちゃんごと溺愛で包む
「……そう」
少し残念そうに「おばあさま」は塩の袋から手を抜いた。
「まあ、上がりなさいよ」
夏乃子の祖父、筒井さんの言葉に甘えて、俺はひんやりとした室内に足を踏み入れた。
通されたのは、リビングというより居間と言ったほうがしっくりくる空間だった。古い畳の匂い。壁掛け時計が、ぽおんと正午を知らせる。
丸いちゃぶ台に、夏乃子が汗をかいたグラスを置いてくれた。なみなみと注がれた麦茶の中の氷が、からんと涼しげな音を立てる。
格子硝子の窓の向こうには向日葵の庭。濡れ縁の向こう、タープの下に小さなビニールプール。少し離れたところに、手作りと思しきブランコが揺れていた。
「……突然のことで驚かれたと思います」
俺は正座をしたまま頭を下げる。
「俺が、その子の父親です。綾城勇梧と申します」
「カノコを捨てたの?」
未亡人の言葉に、ハッと顔を上げる。夏乃子が「違うの」と声をこわばらせた。子供は彼女の膝の上――。
「違うの、私が逃げたの。ふさわしくないと思って――。だってそうでしょ?」
ぎゅっと子供を抱きしめ、夏乃子は言う。
「私にはなにもない――」
「なにもないわけあるか」
声が荒ぶりそうになるのを耐えつつ言う。
「ないの!」
夏乃子が唇を噛む。その唇を指で撫でると、ようやく夏乃子は力を抜いた。
「ないの……。みんなが当たり前に持っているものすら、私にはない」
未亡人が辛そうに眉を寄せた。それは全て彼女のために犠牲になったものだから――。
いや、あの母妹が犠牲にさせた。
介護専門の人間を雇う十分な経済力があるはずなのに、嫌いな義母のために使うのを惜しみ日本からわざわざ娘を呼び寄せた。
そうして虐げたのは、結局のところ、愉しかったからだろう。
帰国して調べた結果、夏乃子の母親はずいぶん前から伯爵と不倫関係にあった。夏乃子の母親にとって、伯爵との出会いは降って湧いた「伯爵夫人」になれるチャンス。――それを潰したのがお腹に宿った夏乃子だと、そう信じているらしかった。
悪者を懲らしめてやっている。そんな感覚だったのだろう――。反吐が出るほどに自己憐憫に満ちた歪んだ正義感が、夏乃子への嫌がらせを加速させた。