誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
……知ってるんだ。
といっても彼の言う通り、ここはこの辺りでは有名な池だ。
私はずっとこの街の近辺に住んでいるけれど、小、中、高、とどの学校でも生徒の間で噂になっていた。耳にする限り、訪れたことがある人も多かったみたいだ。
願いごとが叶うと言われている池。
神社では神さまにお願いごとをする人が多いだろうけど、若い子たちはそういうかしこまったものよりも、根拠のない噂話の方が信憑性を感じてしまう。
だからか、この池で勉強や恋愛に関するお願いごとをする子は多かった。
「で、なに? しつこい男に絡まれて、イライラしてここに来たって話?」
また首を振り、手すりから下を覗いた。
吸い込まれてしまいそうなほど近くに、濃紺の深淵が美しい、水の世界が広がっていた。
「……お願い、したんです」
浮いた落ち葉の隙間に、無感情な私の顔が映っていた。
その、もう一人の自分に話しかけるように語った。
「〝みんな、私のことなんて忘れてしまえばいいのに〟……って」
今でも鮮明に思い出せる。
中学二年生の夏。いじめが始まって、一年が経とうとしている頃だった。
当時、ぶつけられる悪意を受け流す技術なんて持っていなかった私は、すでに限界に達しようとしていた。
通り過ぎざまに、〝たまたま〟を装って行われる暴力。
躊躇なく行われる、私物の窃盗。
毎朝ご丁寧に供えてくれる、私の席の菊の花。
もう、何もかもが嫌だった。
すべてを終わりにしたかった。
その頃のお母さんは特に忙しくて、置き手紙だけでやり取りすることも多かった。そのせいか、私は大好きなお母さんを悲しませたくないという気持ちすらも見失いかけていた。
誰も私を見ていない。
誰も私を助けてなんかくれない。
ただ、心を鋭い剣山で刺され続ける日々。息を止めて耐えるだけの日々。
酸素のない世界で、ずっと一人溺れ続けているのに。
なぜかいつまで経っても、息絶えることができない。
こんな毎日を過ごす意味なんて、あるのかな……。
そして、多田さんにふざけてカッターを首元に押し付けられて、失禁してしまったあの日の夜。
家には帰らず、私はこの池のほとりでずっと泣いていた。
でも、死ぬ勇気が出てこない。こんなにも死にたいのに。
泣いていると、やっぱりお母さんの笑顔が頭に浮かんでくる。この世界でたった一人、私を見ていてくれるお母さんを裏切ることはできなかった。
真っ暗な気持ちで、真っ暗な水面を覗いて。
自分の涙が作り出す小さな波紋を見つめながら、口にした。
〝みんな、私のことなんて忘れてしまえばいいのに〟
「……そしたら、本当にみんな、忘れてくれたんです。私のことを」
私の横で、不良の男の子が静かに私の話を聞いている。こんなふうに自分語りをするのはいつぶりだろう、と思った。
池で呟いたあとの週明け、学校に行くと誰も私のことをかまわなくなった。
最初は、集団無視でも始まったのかと思った。でも違った。みんな私にそっけないけど、無為に攻撃的でもない。
私はそうして、〝サンドバッグにしやすい便利ないじめ要員〟から、〝友達のいない、ただクラスが同じというだけのクラスメイト〟になった。
「その日から、生きるのがだいぶ楽になりました。嫌がらせをする人がいなくなったから。私は教室でいつも一人で、友達なんかいないけれど……今の方がすごく幸せなんです」
私は念願だった、いじめのない学校生活を送れるようになった。
だから、どうでもいい。
駅員さんが私のことを忘れても。
近所のおじさんやおばさんが私のことを忘れても。いじめのなかった小さな頃の友達が私のことを忘れても。
それよりも、私は今を生きるのに精いっぱいだから。
あの日、あの願いが叶っていなかったら今、私はどうなっていたかわからない。
みんなに忘れられるようになって、私は悲しむどころか喜んでいる。幸せを感じている。
だからもう、つきまとわないでほしい。
顔を上げると、男の子がふと私の脇に立ち、しげしげと池を見渡した。
「……なんだそりゃ。この池が本当に願いを叶えてくれたっていうのかよ」
「そう、だと思います」
この池には神さまがいる。私のことを不憫に思って、願いを聞き届けてくれた神さまが。
私はあれから、ちゃんと学校に通えるようになった。
それでもやっぱり、前と同じように何かをきっかけに嫌がらせが始まることはあるけれど。それも次の週になればリセットされると思えば生きられる。
土日に誰かに会わなければ、私の記憶は消え、ただのいちクラスメイトに戻れる。
それは、前の自分の生活と比べるとこの上ない幸せだった。
「……だから、今聞いた話も、俺はいつか忘れるわけ?」
男の子が確かめるように私の方を振り向く。
それに、小さく頷いた。
「あさってには、全部忘れます」
あなたも、同じ。
あの駅員さんと同じ。全部忘れる。
明日は土曜だから、土曜が終わる二十四時、私との会話はあなたの中から消える。
〝いつも駅で見かける女の子と少しの時間一緒にいた〟ということはうっすらと覚えていても、〝なんでそんなことになったか〟〝何を話したか〟は忘れる。私の秘密は丸ごと、消える。
それで、終わり。
「……信じなくていいですよ。私だって今でも信じられないんだから。……でも、願いが叶って救われたのは事実なんです。幸せになれたのは本当です。だから私、悲しくなんかありません。駅員さんに忘れられても、あなたに忘れられても、どうでもいいんです。だから、もうかまわないでください。あなただってあさってには全部忘れるんだから、私のことで何かを感じる必要なんて、ないんです」
理解が追いついていないのか、男の子は黙ったままだった。
その様子を確認して、そっと手すりから離れる。
じゃあ、とだけ告げて、私は神社の方へと歩き出した。
といっても彼の言う通り、ここはこの辺りでは有名な池だ。
私はずっとこの街の近辺に住んでいるけれど、小、中、高、とどの学校でも生徒の間で噂になっていた。耳にする限り、訪れたことがある人も多かったみたいだ。
願いごとが叶うと言われている池。
神社では神さまにお願いごとをする人が多いだろうけど、若い子たちはそういうかしこまったものよりも、根拠のない噂話の方が信憑性を感じてしまう。
だからか、この池で勉強や恋愛に関するお願いごとをする子は多かった。
「で、なに? しつこい男に絡まれて、イライラしてここに来たって話?」
また首を振り、手すりから下を覗いた。
吸い込まれてしまいそうなほど近くに、濃紺の深淵が美しい、水の世界が広がっていた。
「……お願い、したんです」
浮いた落ち葉の隙間に、無感情な私の顔が映っていた。
その、もう一人の自分に話しかけるように語った。
「〝みんな、私のことなんて忘れてしまえばいいのに〟……って」
今でも鮮明に思い出せる。
中学二年生の夏。いじめが始まって、一年が経とうとしている頃だった。
当時、ぶつけられる悪意を受け流す技術なんて持っていなかった私は、すでに限界に達しようとしていた。
通り過ぎざまに、〝たまたま〟を装って行われる暴力。
躊躇なく行われる、私物の窃盗。
毎朝ご丁寧に供えてくれる、私の席の菊の花。
もう、何もかもが嫌だった。
すべてを終わりにしたかった。
その頃のお母さんは特に忙しくて、置き手紙だけでやり取りすることも多かった。そのせいか、私は大好きなお母さんを悲しませたくないという気持ちすらも見失いかけていた。
誰も私を見ていない。
誰も私を助けてなんかくれない。
ただ、心を鋭い剣山で刺され続ける日々。息を止めて耐えるだけの日々。
酸素のない世界で、ずっと一人溺れ続けているのに。
なぜかいつまで経っても、息絶えることができない。
こんな毎日を過ごす意味なんて、あるのかな……。
そして、多田さんにふざけてカッターを首元に押し付けられて、失禁してしまったあの日の夜。
家には帰らず、私はこの池のほとりでずっと泣いていた。
でも、死ぬ勇気が出てこない。こんなにも死にたいのに。
泣いていると、やっぱりお母さんの笑顔が頭に浮かんでくる。この世界でたった一人、私を見ていてくれるお母さんを裏切ることはできなかった。
真っ暗な気持ちで、真っ暗な水面を覗いて。
自分の涙が作り出す小さな波紋を見つめながら、口にした。
〝みんな、私のことなんて忘れてしまえばいいのに〟
「……そしたら、本当にみんな、忘れてくれたんです。私のことを」
私の横で、不良の男の子が静かに私の話を聞いている。こんなふうに自分語りをするのはいつぶりだろう、と思った。
池で呟いたあとの週明け、学校に行くと誰も私のことをかまわなくなった。
最初は、集団無視でも始まったのかと思った。でも違った。みんな私にそっけないけど、無為に攻撃的でもない。
私はそうして、〝サンドバッグにしやすい便利ないじめ要員〟から、〝友達のいない、ただクラスが同じというだけのクラスメイト〟になった。
「その日から、生きるのがだいぶ楽になりました。嫌がらせをする人がいなくなったから。私は教室でいつも一人で、友達なんかいないけれど……今の方がすごく幸せなんです」
私は念願だった、いじめのない学校生活を送れるようになった。
だから、どうでもいい。
駅員さんが私のことを忘れても。
近所のおじさんやおばさんが私のことを忘れても。いじめのなかった小さな頃の友達が私のことを忘れても。
それよりも、私は今を生きるのに精いっぱいだから。
あの日、あの願いが叶っていなかったら今、私はどうなっていたかわからない。
みんなに忘れられるようになって、私は悲しむどころか喜んでいる。幸せを感じている。
だからもう、つきまとわないでほしい。
顔を上げると、男の子がふと私の脇に立ち、しげしげと池を見渡した。
「……なんだそりゃ。この池が本当に願いを叶えてくれたっていうのかよ」
「そう、だと思います」
この池には神さまがいる。私のことを不憫に思って、願いを聞き届けてくれた神さまが。
私はあれから、ちゃんと学校に通えるようになった。
それでもやっぱり、前と同じように何かをきっかけに嫌がらせが始まることはあるけれど。それも次の週になればリセットされると思えば生きられる。
土日に誰かに会わなければ、私の記憶は消え、ただのいちクラスメイトに戻れる。
それは、前の自分の生活と比べるとこの上ない幸せだった。
「……だから、今聞いた話も、俺はいつか忘れるわけ?」
男の子が確かめるように私の方を振り向く。
それに、小さく頷いた。
「あさってには、全部忘れます」
あなたも、同じ。
あの駅員さんと同じ。全部忘れる。
明日は土曜だから、土曜が終わる二十四時、私との会話はあなたの中から消える。
〝いつも駅で見かける女の子と少しの時間一緒にいた〟ということはうっすらと覚えていても、〝なんでそんなことになったか〟〝何を話したか〟は忘れる。私の秘密は丸ごと、消える。
それで、終わり。
「……信じなくていいですよ。私だって今でも信じられないんだから。……でも、願いが叶って救われたのは事実なんです。幸せになれたのは本当です。だから私、悲しくなんかありません。駅員さんに忘れられても、あなたに忘れられても、どうでもいいんです。だから、もうかまわないでください。あなただってあさってには全部忘れるんだから、私のことで何かを感じる必要なんて、ないんです」
理解が追いついていないのか、男の子は黙ったままだった。
その様子を確認して、そっと手すりから離れる。
じゃあ、とだけ告げて、私は神社の方へと歩き出した。