誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
朝ご飯に使った食器を洗い、髪を整え適当な服に着替えると、外へ出た。
玄関を一歩出た瞬間、目を覚ましたばかりの太陽が頭上から殴りつけて、頭をくらくらとさせた。
気分は悪い。午前中の、まだ準備運動前の日差しにすらやられてしまうくらいには悪い。それには理由がある。
近所を歩いていて、偶然多田さんに会ったりでもしたら最悪だからだ。
私に嫌がらせをする主犯格、多田さんはこの街に住んでいる。
中学の頃、私をいじめ始めたのは多田さんだった。多田さんの家は近所というほどでもないけれど同じ街にあって、通う中学が同じだった。
ふらふらと歩いていればもしかしたら会ってしまうかもしれない。
だから私は中学の頃から、休日は近所のスーパー以外出歩かなくなった。
もし会って、またそこからいじめの火種が生まれたら悲しすぎる。土曜も日曜も会うことなんて不運はそうそうないだろうけど、もし偶然が重なって先週の記憶を引き継いでしまったら、二週連続でいじめが続く可能性だってある。
だから、私は休日は家にこもって過ごすようになった。
そんな日々を乗り越えて、ようやく地獄だった中学を卒業できたのに。
私は知らずに、多田さんと同じ高校に入学してしまった。
やっぱり私はいじめられる星の元に生まれてきたんだ。
神さまなんてこの世にいない。神さまに見捨てられてこの世に生まれ落ちたのが、きっと私。
……いや、神さまがいたからこそ、私は人から忘れられる力を授けられたのかもしれないけれど……。
辺りを気にしながら、なんとか駅までたどり着く。
電車に乗っても、周りの若い子たちが多田さんやクラスメイトに見えて落ち着かなかった。
なるべく俯きながら三駅を耐え、見慣れた高校の最寄駅で降りた。この周辺にも悪魔たちが潜んでいるかもしれないから辺りに気を配りながら歩く。
向かうのは——井澄神社。
「おーす」
やっとの思いで石段の前までたどり着くと、植村くんがもう到着していて一番上の段に座っていた。
その顔を見て、挨拶の前にため息が出てしまう。
気分の悪い理由、ふたつ目はこの会合のせいだ。
〝明日も会えば、俺はお前のこと忘れないんだな? じゃ、明日十一時、井澄神社に集合〟
昨日、帰り際にそう言われてどうしても断り切れなかった。
生徒手帳を取られたままなので、住所はバレている。家へ乗り込まれたらかなわない。お母さんは帰りが二十四時を過ぎることも多いから鉢合わせる可能性は少ないかもしれないけれど、騒がれでもしたら近所迷惑になってしまう。
だから言われた通り、来た。
でも……。
私の記憶をつなぎとめたところで、なんだっていうんだろう。
「なんなんですか……。あなた、いったい何がしたいんですか」
「だから、呪いを解くんだよ。呪いを解く前に俺がお前のこと忘れたらどうにもならないだろ」
「呪いって……別に、これは呪いじゃないんですけど。それに、呪いを解くって言ってもそんなの無理じゃ……」
促されるまま石段を上り、勿忘の池へと向かう。
辺りは四方八方で蝉たちが鳴いていて、その騒々しさに余計に気持ちが落ちていった。
今すぐ帰って、静かな部屋に閉じこもりたくなる。
「まぁ、どうやって呪いを解くかはまだノープランなんだけど。どうにかなるだろ」
「そもそも、私はこの、呪い……を、解きたいとは思ってないんですけど」
「知らね。俺が解きたいの。人に忘れられるなんて、そんなの不健全極まりないから」
自分勝手な人……。
このままでいいって言ってるのに。
ちゃんと説明したのに、それでもこの人は自分の考えが正しいと思っている。まるで聞く耳を持ってくれない。
頑固で、わからずやで、我が強すぎる人。
「だってさ、ダチと話したことなんかも忘れるんだろ? 遊んだ思い出とか、旅行の内容とかさ。最悪じゃん」
思考回路が違いすぎて虚しくなる。
この人、私の話聞いてなかったんだろうか。
「……友達なんて、いません」
「今はいなくても。今後できるかもしれねーだろ」
「できません。私、誰にも好かれないし……」
「俺がダチになるかもしれねーじゃん」
は、と呟き彼の顔を見つめた。
相変わらず派手な金髪に、南国の花柄シャツ、ダボダボのデニムの植村くんは、きょとんとした顔で私を見返している。
なんで、私が不良のあなたと友達に……。
なるわけない。住む世界も、人としてのジャンルも違いすぎる。
でも、植村くんはいたって普通のことを言ったとでもいうように涼しい顔をしていて、反論する気も失せてしまった。
「……で、どうするんですか」
面倒になって話を変えると、ちょうど勿忘の池の前に到着した。
池はいつもと同じ、頭上に分厚い緑の葉を覆ってキラキラと輝いていた。
植村くんは本当にノープランだったらしく、腕を組んで考え込んでいる。
そして数十秒してから、顔を上げた。
「作戦、その1」
そう言って、池の際まで近づいた。
手すりに体を寄りかからせて、前のめりになりながらパン、と両手を合わせる。かと思うと突然、石段の下まで聞こえるんじゃないかという声量で叫んだ。
「笠井栞莉の呪いが消えますように!」
鼓膜が震えて倒れそうになった。
……お願いの、し直し。
シンプル。
いたって、シンプル。
それで呪いが消えるというのなら、ある意味話は早いのだけど。
「……〝呪い〟じゃ、具体的じゃねーか?」
植村くんは顔を上げ呟くと、もう一度手を合わせて言い直した。
「笠井栞莉の、〝人に覚えてもらえない〟ってやつがなくなって、元の体に戻りますように!」
言い直してもよくわからない植村くんのお願いを、私は両耳を塞ぎながら聞いていた。
一度目も二度目も、池はしんと音を消したままなんの反応も示さない。ぬるい風がどこからか吹いてきて、頭上の葉をゆらゆらと揺らしているだけ。
こんなので、どうにかなるのだろうか。
本当に願いは叶うのだろうか。
しばらくして、植村くんが振り返った。
「ほら。お前も願えよ」
「いいです……私は別に、このままでいいから」
首を振って、池のそばにあるベンチに座る。正直、願うまでもなく植村くんの願いは聞き届けられないということはわかっていた。
私も昔、ここで願いごとをして叶わなかったことがあるから。