誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
第三話
「栞莉、最近明るくなった?」
目玉焼きを焼いていると、いつのまにか起きていたお母さんが私の肩越しにフライパンを覗き込んでいた。
今日はお母さんがお休みの日だ。
金曜だから私は学校に行く準備をしているけれど、お母さんは早起きする必要はない。なのにお母さんは、いつも寝坊もせず私と同じタイミングで起きてくる。
休みといっても、一日休めるわけじゃないのに。
今日だって、午後からお友達が経営しているというカフェでお手伝い兼アルバイトをするんだと言っていたのに。
それでも寝過ごさず、眠そうな顔をしながらも毎朝起きてくるのは、朝と夜しか顔を合わせられない私へ気遣いなのかもしれない。
「明るく、って。そんなことないと思うけど」
フライ返しで卵の焼け具合を確認しながら答えた。
別に、明るくなんてなっていない。しいて言えばお母さんの前ではいつもできるだけ明るくは振る舞っているけれど、ここ最近で急にテンションを上げた覚えもない。
でも、否定してみても背後から感じるお母さんの妙な含み笑いはおさまらない。
ちらりと見ると、小さな子どもがいたずらを発表する時のような、無邪気な顔をしていた。
「もしかして……カレシでもできた?」
言われて、真っ先に植村くんの顔が頭に浮かぶ。でも全否定の意味で、ぶんぶんの頭を振った。
お母さんはなんでもお見通し。私に何かあれば、私より先に私の微妙な変化に気づく。
ただ、カレシ、というのは大ハズレだ。
「そんなのありえないよ。私そういうの興味ないから。……お母さん、卵半熟でいいんだよね?」
「うん。ありがとー」
ポン、と肩に触れられる。それと同時に、お母さんの手のひらから不思議なエネルギーでも出ているかのように、心がぽっと温まった。
朝、お母さんと少し話すだけで今日を生きてみようという気持ちになれる。
どんなにつらいことがあっても耐えられるような気がしてくる。
恥ずかしくて面と向かっては言えないけど、私に生きる希望を与えてくれる、いつも感謝してる、大好きな人。
でも、お母さんの力をもってしても、今日は気が重い。
今週はいじめがある週だから。
水曜にうっかり多田さんと廊下でぶつかってしまって以来、堰を切ったかのように嫌がらせが解禁されてしまった。明日は土曜だから嫌な思いをするのは今日で最後だけど、今日を乗り越えなきゃと思うだけで憂鬱になる。
いつもの、いじめ。
なのに最近は、それがいつも以上につらく感じる。
今まではなんとか耐えてきたのに。なるべく感情をなくして、受け流すことができていたのに。
慣れるどころか、いつもより〝悲しい〟という気持ちが滲み出てきてしまう。
その、理由は……。
「カレシじゃなくてもさ、学校に気になる男の子でもできたんじゃない? なんか変わった気がするんだよねぇ、栞莉」
ウインナープレートを二人でテーブルに運んでいると、お母さんがまたさっきの話を持ち出した。
恋バナはどうでもいいけれど、私のいじめに対する不安はうまく隠せているようでほっとする。
「だから、そういうのはないって……。男の人は苦手なの」
「クラスにいい子はいないの? 栞莉はお料理上手だし、素直だし、いいお嫁さんになると思うんだけどなぁ」
「そういう考え方は古いよ。今は男の人も家事する時代なんでしょ」
「そっかぁ。……じゃあ、新しい友達でもできた?」
ピタ、と手が止まる。
〝俺がダチになるかもしれねーじゃん〟
友達……かどうかも、まだあやふやだけれど。
いつのまにか、その存在が大きくなっているのはたしかだった。
かれこれ一ヶ月以上一緒にいるのだから、そんなの当たり前かもしれないけれど。私たちの間に、何かしらの関係が生まれたのは事実だ。
そして、近頃いじめに対してひどく傷ついてしまうようになったのは、完全に植村くんのせいだった。
前までなら、どんなに嫌なことをされても我慢できていたのに。
どんな仕打ちを受けても、お母さんのために生きようってがんばれたのに。
やさしさを知ってしまったから。
こんな私に、一所懸命になってくれる人が現れたから。
それがたとえ、私の望まない〝呪いを解く〟という行動だったとしても。今までお母さん以外の人で、私の現状を知っている人で、私とつながろうとしてくれた人なんていなかったから。
私も人並みにやさしくされたい、なんて……。
変なこと、考えさせないでほしい。
「……友達は学校にいるけど、いつも通りだよ。別に何も変わってない。機嫌がいいのは最近成績上がってきてるからじゃない?」
適当に返して、顔色を読まれないように水を汲みに立った。
お母さんに見せている私は、偽りの姿。
だからこそ、がんばってこれた。お母さんを悲しませないために、何があっても高校を卒業してやると思ってた。なのに。
あぁ、いやだ。
植村くんのせいで、私は一時間後、更なる地獄を見るんだ。