誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
 話し出した瞬間、どこからか声がして私たちは振り返った。
 雑踏の中に立っていたのは、手を振る女性。
 フォーマルな白のシフォンブラウスに、体のラインに沿ったパンツ。
 ウェーブのかかった薄茶色の髪が大人っぽくて、昔、大人になったら真似してみたいと想像を膨らませたことがある。
 かつて毎日のように見かけていたその女性を前に、私は目を見開いた。

「……塚本、先生……?」
「わぁ、二人とも変わってない。でもちょっと大人っぽくなったかな?」

 中学校の頃の先生。
 地理を担当していた、塚本先生だ。
 先生たちの中ではかなり若い方で、みんなから人気があった。今でも変わらずかっこいいままだ。
 一気に思い出が溢れてきて、胸が詰まってしまう。
 でも、どうしてここに?

「笠井さん、元気だった? 懐かしいわねぇ。卒業式ぶりかな」
「お……お久しぶり、です」
「植村くんも! ちゃんと高校生してるのねぇ。路頭に迷ってるんじゃないかと思って心配してたけど、ほっとしちゃった」

 ぱっと植村くんを振り返る。
 おす、と挨拶をする植村くん。
 ということは、つまり。

「……え、待って……。私たち、同じ学校だったの⁉︎」

 驚きのあまり、また植村くんのパーカーの裾を引っ張った。
 植村くんはポケットに手を入れたまま、さらりと答える。

「そうだけど」
「え? あなたたち、知らないで一緒にいたの?」
「あ、は、はい……私、駅のホームで植村くんに話しかけられて、知り合って」
「そういえば、二人が学校で話してるの見たことないものね」

 変な二人ね、と言って先生が笑う。でも私は大混乱していて、笑ってすむレベルじゃなかった。
 植村くんが同じ中学に通っていたなんて、全然知らなかった。
 どの学校にも悪い生徒というのはいるものだから、なんとなく噂で不良っぽい生徒がいることくらいは知っていた。でもそんなことに興味はなかったし、中学の頃の私はいじめのことで頭がいっぱいで、他クラスの生徒のことを考える余裕なんてなかった。
 じゃあ……。
 植村くんは、もしかして私が中学の頃いじめに遭ってたことを知っていたの?
 でも。

〝同じ学校のヤツなんだろ、同じ制服だったし。いじめってやつ?〟

 はじめて声をかけられた時、そんな感じはしなかった。いじめというものをはじめて見たような口ぶりだった。
 ただの……偶然?
 今すぐ問い質したいのに、先生と久しぶりに会った今の状況で、関係のない話はできない。
 植村くんの方を見ると、先生を前に急にかわいこぶって、奢って奢ってとせがんでいる。
 植村くんが店の外で待っていたのはこれが理由だったのだろう。先生が快く了承してくれたものだから、私は申し訳なく思いながらも一番安い紅茶を頼んだ。

「なんだかんだで元生徒が連絡くれるのははうれしいものね。元生徒っていっても、二人とも私の担任でもなかったのに」

 テラス席を陣取り、先生は上品に珈琲に口をつけるとにっこりと笑った。
 今日は休日だけれど、教師という職業はとても忙しいと聞く。でも先生は中学当時と変わらない薄化粧を今日もばっちり決めていて、せっかくの休みの日に無理をさせてしまったことにさらに申し訳なくなった。
 植村くんはそんなことを気にも留めず、いきなり本題に入る。

「あのさ。俺たち、ちょっと塚っちにお願いがあって」
「なぁに、何か魂胆があったの。思い出話くらいさせてよ」
「ガッコの近くにさ、勿忘(ワスレナ)の池ってあるだろ。あれについて調べてほしいんだ」

 先生は少し上を向いて考え込むと、あぁ、と答えた。

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