誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「なんだよ、急に黙って」
植村くんが漕ぐのをやめて、ブランコの上にしゃがみ込む。そして俯く私の顔を覗き込んだ。
私はブランコの足元に植わった、折れ曲がったたんぽぽを見つめていた。
どんなに懸命に生きようとしても、ブランコで無邪気に遊ぶ子どもたちに踏みつけられてしまう命。それでもたんぽぽの生命力は強く、また立ち上がろうと必死に上を向く。
でも、私には、その力がない。
「……私も、先生によく話しかけられてたの。多田さんに転ばされたりぶたれたり、しょっちゅう小さい怪我させられてたから。先生めざとくて、そういうのによく気づいちゃって」
「……そ、か」
植村くんのらしくない、気を遣ったような相槌がなんだか虚しく聞こえた。
さっき見た、先生の笑顔を思い出す。
植村くんにたくさん迷惑をかけられたと言いながら、楽しそうに話していた。
話す思い出はろくでもないものばかりだったのに、愛おしそうな目をしてた。
あの、笑顔……。
昔は、私にも向けられていたのに。
「私、惨めだった……。先生に全部、忘れられて。先生、植村くんの方ばかり話しかけてて。私だってあんなに話したのに。お世話になったのに」
植村くんは黙って私の言葉に耳を傾けている。
でも、と言って、私は顔を上げた。
「……だからって……この呪いが解けたとしても、私にいいことなんてないんだよ」
植村くんの目を正面から見つめた。
「また、中学の頃みたいにいじめられる……。どっちに行っても地獄なの。だったら、私は……いじめのない生活を選びたい。またあの頃みたいに戻ったら、今度こそ心が壊れて、生きていけるかわからないから……」
今度はのらりくらりとかわさせない。
ちゃんと話して、わかってもらわないといけない。
呪いのせいでどんなに悲しい思いをしたとしても……惨めで、やるせない気持ちに襲われたとしても。
いじめのつらさには敵わないのだから。
踏みつけられて、逃げ場もなくて、どうにもならなくなってしまう日が来てしまうくらいなら。
先生に忘れられたっていい。
孤独になってもいい。
私は私を守りたい。
そうしないと、生きて、いけない。
植村くんはブランコから降りると、今まで足が乗っていた面を払うことなく、どすんと座った。
そして、ふと空を見上げる。私もなんとなくその視線の先を追うと、いつのまにか厚い雨雲が迫っていた。
私の不安をそのまま形に表したような、濁った色をしている。
「……俺は、さ。誰になんと言われようと、人に忘れられる人生なんて悲しいことだと思う。もし明日、塚っちが俺のことを忘れたら嫌だと思うし、親も、ガッコのやつらにも忘れられたくない。そんなの悲しすぎる」
「……じゃあ、毎日いじめに遭う方がいいっていうの?」
「違う。そんなのどっちもくそくらえだ」
また植村くんの視線が私の方を向いた。
いつも鋭くて、ナイフの切っ先のような視線は、私には強すぎて息がしにくくなる。
それでも、逸らすことはできない。
「俺には、お前が学校でどんな目に遭ってんのかはわかんねーよ。髪切られるなんて相当なことされてんだと思う。でもそれは……どこかに、どうにかする道が、あるはずなんだ」
道が……ある?
……なに、それ。
頭が真っ白になって、思考が燃えていく感覚がした。
言い返したいのに、言葉は頭の中で生まれるそばから消えていく。
頭に血が上るというのはこういうことなんだ、と静かに理解した。
知らないくせに。
何もわかんないくせに。
私だって、今までいろいろ考えてきた。でもどうにもならなくて、もがいてもがいて、その結果が今なのに。
植村くんなんて、下手したらいじめる側の人間になりかねない人種のくせに。
どの口が、それを言うの?
「簡単に言わないで!」
気づくと私は叫んでいた。
走ってもいないのに息が切れて、酸欠で、頭がくらくらしていた。
「なに、道って。どこに道があるの? じゃあどうすればいいの? 中学の時、何か行動に起こそうと思ったけどどうにもならなかった。苦しくて、どっちに行っても行き止まりで、じっとしているので精いっぱいだった。これ以上、私に何ができるの?」
「わかってるよ。簡単なことじゃない。どの道を選んでもつらいんだろ。ただ、きっとどこかに方法はある。お前を救う道がある。でもな、お前のその呪いだけはどうにもならないんだよ!」
怒鳴り合う声が響く。
泣きたいわけじゃない。
なのに反射的に出てきそうになる涙を、ぐっと堪えた。
「お前のその呪いは、積み上げてきたものが一瞬で消える。大切な家族の記憶だっていつか消えるかもしれない。新しいダチだって永遠にできないかもしれない。そんな状態で大人になって、仕事なんてできるのか? 好きな人と恋人同士になんてなれんのか? 友達も恋人も仕事も、別に人生に必ず必要なわけじゃない。でも、望んでも全部うまくいかなくなるかもしれない。お前は呪いのせいで、この先のいろんな可能性がつぶされるんだよ」
そう言われて、急に目の前が暗くなった。
遠い、未来。
まだ先の見えない、はるか先の未来。
でも……いつか、必ず来る、未来。
植村くんはずっと先まで見ている。
私の立場に立って、私なんかより冷静に、物事を見ている。
その通りだ。植村くんの言う通り。
……でも。
それでも私は……〝今〟を、生きられる自信がないんだ。
つらい、いじめ。すべてを否定されて、そのまま消えてなくなりたくなるくらいの、いじめ。
今を失えば、未来はない。
ここを乗り越えられないなら、未来も来ない。
その自信が、ないから。
折れることができない。
「わかってるよ……」
「わかってない」
きっぱりと否定する植村くんから、思わず視線を外してしまった。
……植村くんは、わざと塚本先生を呼んだのかもしれない。
先生と私の間柄はたぶん、知らなかったのだろうけれど。それでも、認識のある人間との自分の親しい会話を見せつけて、私に考え直させようとしたのかもしれない。
やっぱりこの呪いは、消すべきなのだと。
私が嫌な思いをするのを重々承知で、先生を……。
植村くんがブランコから離れて、私の前にやってきた。
ボロボロだけれどおしゃれなハイカットのスニーカーが目の前に立ち塞がる。
顔を上げたらすぐそこで、植村くんが私を見つめているだろう。
「……お前も、忘れられたくない人はたくさんいるんじゃねーの」
わかってる。
わかってるよ。
……でも、やっぱり今は、立ち向かえない。
植村くんを避けるように立ち上がると、私は彼を置いて走り出した。
植村くんが漕ぐのをやめて、ブランコの上にしゃがみ込む。そして俯く私の顔を覗き込んだ。
私はブランコの足元に植わった、折れ曲がったたんぽぽを見つめていた。
どんなに懸命に生きようとしても、ブランコで無邪気に遊ぶ子どもたちに踏みつけられてしまう命。それでもたんぽぽの生命力は強く、また立ち上がろうと必死に上を向く。
でも、私には、その力がない。
「……私も、先生によく話しかけられてたの。多田さんに転ばされたりぶたれたり、しょっちゅう小さい怪我させられてたから。先生めざとくて、そういうのによく気づいちゃって」
「……そ、か」
植村くんのらしくない、気を遣ったような相槌がなんだか虚しく聞こえた。
さっき見た、先生の笑顔を思い出す。
植村くんにたくさん迷惑をかけられたと言いながら、楽しそうに話していた。
話す思い出はろくでもないものばかりだったのに、愛おしそうな目をしてた。
あの、笑顔……。
昔は、私にも向けられていたのに。
「私、惨めだった……。先生に全部、忘れられて。先生、植村くんの方ばかり話しかけてて。私だってあんなに話したのに。お世話になったのに」
植村くんは黙って私の言葉に耳を傾けている。
でも、と言って、私は顔を上げた。
「……だからって……この呪いが解けたとしても、私にいいことなんてないんだよ」
植村くんの目を正面から見つめた。
「また、中学の頃みたいにいじめられる……。どっちに行っても地獄なの。だったら、私は……いじめのない生活を選びたい。またあの頃みたいに戻ったら、今度こそ心が壊れて、生きていけるかわからないから……」
今度はのらりくらりとかわさせない。
ちゃんと話して、わかってもらわないといけない。
呪いのせいでどんなに悲しい思いをしたとしても……惨めで、やるせない気持ちに襲われたとしても。
いじめのつらさには敵わないのだから。
踏みつけられて、逃げ場もなくて、どうにもならなくなってしまう日が来てしまうくらいなら。
先生に忘れられたっていい。
孤独になってもいい。
私は私を守りたい。
そうしないと、生きて、いけない。
植村くんはブランコから降りると、今まで足が乗っていた面を払うことなく、どすんと座った。
そして、ふと空を見上げる。私もなんとなくその視線の先を追うと、いつのまにか厚い雨雲が迫っていた。
私の不安をそのまま形に表したような、濁った色をしている。
「……俺は、さ。誰になんと言われようと、人に忘れられる人生なんて悲しいことだと思う。もし明日、塚っちが俺のことを忘れたら嫌だと思うし、親も、ガッコのやつらにも忘れられたくない。そんなの悲しすぎる」
「……じゃあ、毎日いじめに遭う方がいいっていうの?」
「違う。そんなのどっちもくそくらえだ」
また植村くんの視線が私の方を向いた。
いつも鋭くて、ナイフの切っ先のような視線は、私には強すぎて息がしにくくなる。
それでも、逸らすことはできない。
「俺には、お前が学校でどんな目に遭ってんのかはわかんねーよ。髪切られるなんて相当なことされてんだと思う。でもそれは……どこかに、どうにかする道が、あるはずなんだ」
道が……ある?
……なに、それ。
頭が真っ白になって、思考が燃えていく感覚がした。
言い返したいのに、言葉は頭の中で生まれるそばから消えていく。
頭に血が上るというのはこういうことなんだ、と静かに理解した。
知らないくせに。
何もわかんないくせに。
私だって、今までいろいろ考えてきた。でもどうにもならなくて、もがいてもがいて、その結果が今なのに。
植村くんなんて、下手したらいじめる側の人間になりかねない人種のくせに。
どの口が、それを言うの?
「簡単に言わないで!」
気づくと私は叫んでいた。
走ってもいないのに息が切れて、酸欠で、頭がくらくらしていた。
「なに、道って。どこに道があるの? じゃあどうすればいいの? 中学の時、何か行動に起こそうと思ったけどどうにもならなかった。苦しくて、どっちに行っても行き止まりで、じっとしているので精いっぱいだった。これ以上、私に何ができるの?」
「わかってるよ。簡単なことじゃない。どの道を選んでもつらいんだろ。ただ、きっとどこかに方法はある。お前を救う道がある。でもな、お前のその呪いだけはどうにもならないんだよ!」
怒鳴り合う声が響く。
泣きたいわけじゃない。
なのに反射的に出てきそうになる涙を、ぐっと堪えた。
「お前のその呪いは、積み上げてきたものが一瞬で消える。大切な家族の記憶だっていつか消えるかもしれない。新しいダチだって永遠にできないかもしれない。そんな状態で大人になって、仕事なんてできるのか? 好きな人と恋人同士になんてなれんのか? 友達も恋人も仕事も、別に人生に必ず必要なわけじゃない。でも、望んでも全部うまくいかなくなるかもしれない。お前は呪いのせいで、この先のいろんな可能性がつぶされるんだよ」
そう言われて、急に目の前が暗くなった。
遠い、未来。
まだ先の見えない、はるか先の未来。
でも……いつか、必ず来る、未来。
植村くんはずっと先まで見ている。
私の立場に立って、私なんかより冷静に、物事を見ている。
その通りだ。植村くんの言う通り。
……でも。
それでも私は……〝今〟を、生きられる自信がないんだ。
つらい、いじめ。すべてを否定されて、そのまま消えてなくなりたくなるくらいの、いじめ。
今を失えば、未来はない。
ここを乗り越えられないなら、未来も来ない。
その自信が、ないから。
折れることができない。
「わかってるよ……」
「わかってない」
きっぱりと否定する植村くんから、思わず視線を外してしまった。
……植村くんは、わざと塚本先生を呼んだのかもしれない。
先生と私の間柄はたぶん、知らなかったのだろうけれど。それでも、認識のある人間との自分の親しい会話を見せつけて、私に考え直させようとしたのかもしれない。
やっぱりこの呪いは、消すべきなのだと。
私が嫌な思いをするのを重々承知で、先生を……。
植村くんがブランコから離れて、私の前にやってきた。
ボロボロだけれどおしゃれなハイカットのスニーカーが目の前に立ち塞がる。
顔を上げたらすぐそこで、植村くんが私を見つめているだろう。
「……お前も、忘れられたくない人はたくさんいるんじゃねーの」
わかってる。
わかってるよ。
……でも、やっぱり今は、立ち向かえない。
植村くんを避けるように立ち上がると、私は彼を置いて走り出した。