誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
*
夜の井澄神社は明かりもなくて、闇に浮かぶ木々たちが今にも襲いかかってきそうだった。
私はぼんやりと、勿忘の池まで続く道を歩いていた。
結局あの後、家に帰る気にはなれなくて。
晩ご飯の準備も勉強も放棄して、うろうろと街を彷徨って。なんとなく、勿忘の池に戻ってきていた。
そして歩きながら、何度も何度も同じことを考えていた。
ずっと見ないふりをしていた、現実。
私のこの呪いは今この瞬間の悩みを解決するものでしかなくて、大きな人生として見れば、不幸になる道でしかないということ。
お母さんの記憶だけは守りたいと思っていても、私はいつまでもお母さんのそばにいられるわけじゃない。
いつか社会人になって、出張なんかで数日家から離れれば、お母さんの中の私の記憶は簡単に消えてしまう。
会社に入ったらいじめはなくなるかもしれないけれど、親しい同僚はできずに孤立する。仕事の話をしても土日を挟んだら忘れられて、うまくいかなくなるのかもしれない。
それが、私の現実。
私の、未来。
……だけど。
それでも……。
どうしても、できない。
呪いを解く勇気が出てこない。
呪いを解いて、記憶を取り戻した多田さんと学校で会うのが……つらい。
そもそも呪いを解く方法がわかっていないのだから、どうこう考えたって無駄なのかもしれないけれど。
今後も呪いを背負ったまま、生きていくしかないのかもしれないけれど。
でも。
〝ほら。お前も願えよ〟
……私が、望めば。
呪いは解けるの……?
じっと道の先を見つめると、遠くに赤い手すりが浮かび上がってきた。
そして同時に、こんな時間なのに先客がいることに気づいた。
前に会った男の人だ。
別れた恋人を待っているという、大学生くらいの男の人。
だんだんと、歩く速度が早まっていく。なんだか彼と話したい気分だった。
種類は違うけれど、彼も私と同じ、大きな悩みを抱えている。
詳しくは話せなくても、この悲しみを共有したら少しは気持ちも落ち着くんじゃないかと思えた。
でも、こんばんは、とそっと声をかけて、後悔した。
目元を拭いながら顔を上げた彼が、明らかに泣いていたからだ。
「……こんばんは。あれ……君、たしか、前にここで会った……」
慌てて作り笑顔を浮かべる彼に、いたたまれない気持ちになる。
彼も彼でどん底の気分だったのだろう。一人でいたかったかもしれない。
私もどん底ではあるけれど、やっぱり他の人がつらそうにしているのを見ると、自分の悩みなんて口に出さなくなる。
「はい。……ごめんなさい、私、邪魔でしたよね」
「そんなことないよ。あは……恥ずかしいところ見られちゃったな」
彼は視線を水面へと向けると、叩くようにして頬を撫で、大きく息を吐いた。
横目で彼を見ると、やっぱりつらそうな顔をしている。
目元が少し腫れていた。いつからここで泣いていたのだろう。
この人も、私と同じ。
強い孤独を感じている。
「……夜になると、いろいろなことを考えてしまって寂しくなるんですよね。せっかく来たのに、僕の方こそ邪魔してすみません」
なぜか謝られて、慌てて首を振る。私も悲しみに満たされた気持ちで水面を眺めた。
どんな人だったんだろう。彼が恋した女性。
失恋には次の恋がいいと聞いたことがあるけれど、次の人にいきなよなんて安易なこと、言えない。
恋のひとつもしたことがない女子高生に一般論をかざされたって、なんの気休めにもならない。また気を遣ってやさしい笑顔を向けられるだけだ。
きっとこのつらさは本人にしかわからない。
私も、同じだから。
「そうですね。私は朝、これから一日が始まるんだと思うと暗い気持ちになるんですけど、夜も夜で寂しい気持ちになります」
かわりに、共感部分を口にした。
男の人はこちらを見ると、前と同じような穏やかな表情で笑った。
「……ですよね。夜の暗闇って、何か魔力でもあるのかな」
「そうだと思います。真っ暗で、怖くて、先が見えなくて……」
なのに、自らこんなに暗い場所に来る私たちは病んでいるのだろうか。
でも、明るいネオン街もアパートの蛍光灯も怖いと感じる。こちらの気持ちなどひとつも考えていない、無神経な明るさに逃げ出したくなる。
結局は、先の見えない暗闇も、現実を直視させられる光も、怖いということなのだろう。
夜の井澄神社は明かりもなくて、闇に浮かぶ木々たちが今にも襲いかかってきそうだった。
私はぼんやりと、勿忘の池まで続く道を歩いていた。
結局あの後、家に帰る気にはなれなくて。
晩ご飯の準備も勉強も放棄して、うろうろと街を彷徨って。なんとなく、勿忘の池に戻ってきていた。
そして歩きながら、何度も何度も同じことを考えていた。
ずっと見ないふりをしていた、現実。
私のこの呪いは今この瞬間の悩みを解決するものでしかなくて、大きな人生として見れば、不幸になる道でしかないということ。
お母さんの記憶だけは守りたいと思っていても、私はいつまでもお母さんのそばにいられるわけじゃない。
いつか社会人になって、出張なんかで数日家から離れれば、お母さんの中の私の記憶は簡単に消えてしまう。
会社に入ったらいじめはなくなるかもしれないけれど、親しい同僚はできずに孤立する。仕事の話をしても土日を挟んだら忘れられて、うまくいかなくなるのかもしれない。
それが、私の現実。
私の、未来。
……だけど。
それでも……。
どうしても、できない。
呪いを解く勇気が出てこない。
呪いを解いて、記憶を取り戻した多田さんと学校で会うのが……つらい。
そもそも呪いを解く方法がわかっていないのだから、どうこう考えたって無駄なのかもしれないけれど。
今後も呪いを背負ったまま、生きていくしかないのかもしれないけれど。
でも。
〝ほら。お前も願えよ〟
……私が、望めば。
呪いは解けるの……?
じっと道の先を見つめると、遠くに赤い手すりが浮かび上がってきた。
そして同時に、こんな時間なのに先客がいることに気づいた。
前に会った男の人だ。
別れた恋人を待っているという、大学生くらいの男の人。
だんだんと、歩く速度が早まっていく。なんだか彼と話したい気分だった。
種類は違うけれど、彼も私と同じ、大きな悩みを抱えている。
詳しくは話せなくても、この悲しみを共有したら少しは気持ちも落ち着くんじゃないかと思えた。
でも、こんばんは、とそっと声をかけて、後悔した。
目元を拭いながら顔を上げた彼が、明らかに泣いていたからだ。
「……こんばんは。あれ……君、たしか、前にここで会った……」
慌てて作り笑顔を浮かべる彼に、いたたまれない気持ちになる。
彼も彼でどん底の気分だったのだろう。一人でいたかったかもしれない。
私もどん底ではあるけれど、やっぱり他の人がつらそうにしているのを見ると、自分の悩みなんて口に出さなくなる。
「はい。……ごめんなさい、私、邪魔でしたよね」
「そんなことないよ。あは……恥ずかしいところ見られちゃったな」
彼は視線を水面へと向けると、叩くようにして頬を撫で、大きく息を吐いた。
横目で彼を見ると、やっぱりつらそうな顔をしている。
目元が少し腫れていた。いつからここで泣いていたのだろう。
この人も、私と同じ。
強い孤独を感じている。
「……夜になると、いろいろなことを考えてしまって寂しくなるんですよね。せっかく来たのに、僕の方こそ邪魔してすみません」
なぜか謝られて、慌てて首を振る。私も悲しみに満たされた気持ちで水面を眺めた。
どんな人だったんだろう。彼が恋した女性。
失恋には次の恋がいいと聞いたことがあるけれど、次の人にいきなよなんて安易なこと、言えない。
恋のひとつもしたことがない女子高生に一般論をかざされたって、なんの気休めにもならない。また気を遣ってやさしい笑顔を向けられるだけだ。
きっとこのつらさは本人にしかわからない。
私も、同じだから。
「そうですね。私は朝、これから一日が始まるんだと思うと暗い気持ちになるんですけど、夜も夜で寂しい気持ちになります」
かわりに、共感部分を口にした。
男の人はこちらを見ると、前と同じような穏やかな表情で笑った。
「……ですよね。夜の暗闇って、何か魔力でもあるのかな」
「そうだと思います。真っ暗で、怖くて、先が見えなくて……」
なのに、自らこんなに暗い場所に来る私たちは病んでいるのだろうか。
でも、明るいネオン街もアパートの蛍光灯も怖いと感じる。こちらの気持ちなどひとつも考えていない、無神経な明るさに逃げ出したくなる。
結局は、先の見えない暗闇も、現実を直視させられる光も、怖いということなのだろう。