誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
第四話
「はよ」
電車から降りると、いきなり目の前に植村くんが現れて体が固まってしまった。
誰もが憂鬱な、月曜の朝。
私たち以外の人たちは、足取り重くもさっさと改札へ向かっていく。その人だかりの中、私たちだけが時が止まったようにホームの隅で見つめ合っていた。
……今日はいつもより三十分早い電車に乗ったのに。
植村くんと会わないよう、万全を期していたつもりだったのに。
全部、読まれていた。でなければこの時間に、いつもは向かいのホームにいるはずの植村くんがここにいるはずがない。
何時から待ち伏せしていたんだろう。
何度でも思ってしまう。本当にしつこい人。
改札の方向に立ち塞がっている植村くんを避けることなどできず、しばらくその場に立ちすくした。
「……昨日は、ごめん」
不意に落ちてくる、謝罪。
その言葉に、思わず鞄を持つ手にぎゅっと力を込める。
昨日……。
……というのは、公園で喧嘩別れした土曜、のことじゃない。
日曜のことだ。
昨日の日曜、私は今日こそ植村くんと会わないと心に決めていた。
でも朝、お母さんにご飯を作って仕事を見送ったあと、今日は一日どこに姿を眩ましていようかと考えていた矢先に家のチャイムが鳴ってしまったのだ。
〝おーい、いるんだろー? 開けるまでここ動かないからな!〟
チャイムの連打にノックの連打。まだ動いている換気扇やテレビの音から、中に人がいるのはバレバレのようだ。
朝の八時とは思えない声量に、思い切って警察を呼んでしまおうかとも考えた。でも、なんだか大それたことになってしまいそうで勇気が出ない。
結局根負けしてドアを開けると、植村くんはにっと笑って「今日もクリア」とおどけて帰っていった。
もはや、植村くんは意地になっている気がする。
もし一日でも顔を合わせなければ、今までやってきたことが水の泡になってしまうから。今日までの二ヶ月近く、土曜も日曜も費やしてきたことが無になってしまうから。
やめ時を失い、勝つまでお金を投入し続けるギャンブラーみたいだ。
でもこれはギャンブルとは違って、負けた記憶も忘れてしまうのだから負けたところでどうでもいいはずなのに。
「……あの……ここで話しかけられると、誰かに見られるかもしれないから……」
俯いたまま文句をぶつけた。
その言葉に、悪り、とまた謝罪が返ってくる。でもそっと顔を上げると、そこには悪いなんて微塵も思ってないにやけ顔があって、小さく息を吐いてしまう。
あぁ。
こうしていつも、うやむやにされるんだ。
謝れば済む問題じゃない。これ以上、植村くんと一緒にいるのは危険なのに。
植村くんといて、万が一この呪いが解けたらつらい思いをするのは私なのに。
……なの、に。
私はいつのまにか、心のどこかで植村くんとのつながりが切れることにためらいを感じ始めていた。
人生の中でほんの少し、一緒にいただけの人。性格なんてまったく合わない、いつも私を振り回すだけの迷惑な人。……なのだけど。
忘れられたくない。
忘れたくない。
一緒にいた短い時間を、どうにかつなぎ止めていたいと思い始めている自分がいた。
ただそれは、きっと大した感情じゃない。
人は誰かに会い続けると、たとえ第一印象が最悪だったとしてもいい感情を持ち始めるというから。
私の中に、〝なんとなくもったいない〟という気持ちがあるだけ。特に私は、勿忘の池で願った中学二年生の頃から、お母さん以外の人で誰かに会い続けるということがなくなってしまったし。
植村くんは私の事情を知っているから、自分の気持ちを吐き出すこともできる。
だから、もったいなく感じてしまうだけ……。
また目を逸らし、植村くんを避けて改札へ向かった。
植村くんは今度は引き止めてはこなかった。
ふと、言い忘れていたことを思い出して足を止める。
「……植村くん」
振り返ると、ズボンのポケットに両手を突っ込み、ローファーの爪先を見ていた植村くんが顔を上げた。
一瞬見えた、前髪に隠れた目が少し沈んでいるように見えて、意外だった。
「髪の毛……ありがとう。……お母さんに見せたら、褒められた」
長い髪を手放し、ボブになってしまった私。
でも、気分転換してみた、と言ってお母さんに見せたら、お母さんはうれしそうに頭を撫でてくれた。
〝わぁ、かわいい! お人形さんみたい! 栞莉はどんな髪型でもに似合うよねぇ〟
お母さんはいつだって、どんな私でも受け止めてくれる。
本当はロングの方がよかったのに、なんて含みは一切なかった。結局は髪なんてどうでもよくて、お母さんはどんな私も好きでいてくれるのだろう。
植村くんは人懐っこい大型犬みたいににかっと笑うと、反対側のホームへ歩き出した。
「来週の土曜も、神社に十一時集合な!」
……また、いつもの流れだ。
植村くんの後ろ姿を見送りながら、ため息をつきつつ改札へ向かった。