誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
しばらく図書館で過ごしてから、私たちは外へ出た。
時刻は十五時。いつも十一時に集合して十四時になる前には解散していたから、今日はやたらと長い。
なんでこんなにぐだぐだしているのかと思えば、私が聞き込みをした失恋中の彼のことを話し、植村くんが憤慨したのが始まりだと思い出す。
まったくもって無駄な時間を割いてしまった。
「はー、暇。これからどうすっか」
「調査しないなら帰る。勉強もしなきゃならないし、晩ご飯の支度もあるから」
「なに、やっぱりお前料理係なん? 昼メシ作って、腹減った」
「だから、家に帰って食べてってば……」
駅に向かいながら言い合いをしていると、正面から若い子たちの集団が歩いてきた。
それを避けようと植村くんの方に体を寄せた瞬間、ぞくりと全身が毛羽だった。目の前の人物を認識する前に、体が勝手に反応していた。
——多田さんだ。
集団の先頭を歩いている。最近は外に出てもずっと気が緩んでいたけれど、同じ行動圏内に暮らす者同士、いつ出会ってもおかしくないということ忘れていた。
隠れなきゃと思う間もなく、目を向けられて彼女が笑顔を消す。
そして数秒してから、オオカミがウサギを見つけた時のような、不気味な笑みを私に向けてきた。
「笠井じゃん」
名前を呼ばれて、足が止まってしまった。
他にも後ろには、知らない女の子が二人、男の子が三人いる。際どい丈のスカートを履いた女の子たちに、鼻ピアスやごつごつしたネックレスをした男の子たち。全員がいかにも陽キャな見た目をしていた。
多田さんが立ち止まったため、残りの五人も足を止める。
植村くんはわけがわからず、立ちすくしている私と前方の集団をきょろきょろと見返していた。
「え。あんた……植村、陸?」
多田さんに名前を呼ばれて、植村くんが不思議そうな顔をする。
植村くん、多田さんのこと知らないんだ。
でも、多田さんは植村くんのことを知っているらしい。
私と植村くんと多田さんは同じ中学。植村くんは当時やんちゃな生徒だったから、面識はなくても知ってる人は多い。
不穏な空気に、全身に冷や汗が滲んでくる。
「植村くん、行こ……」
「やば、なにこの組み合わせー。あんたら付き合ってんの?」
多田さんが笑いながら私たちに近寄る。植村くんはただ人形のように、じっと多田さんを見つめ返していた。
でも間違いなく、多田さんの言葉や行動からいろんなことを察知してしまっている。
多田さんはじろじろと私たちを見ると、ぷっと噴き出すように笑って五人の元へ戻っていった。
「底辺は底辺同士、お似合いだわ」
行こっ、と言ってみんなを引き連れ歩き出す。残りの五人は興味津々に私たちを見ながら、多田さんにこそこそと詳しい話を聞き出そうとしていた。
……よかった。
このまま立ち去ってくれるみたいだ。
どう見ても〝仲のいいお友達〟とは程遠い雰囲気に、植村くんが何か言い出すんじゃないかと思った。でも思ったよりも冷静な様子の植村くんは、何も言わずに立ったままだ。
私たちも行こうと、彼の服の袖を引っ張る。
——でも、やっぱり。
植村くんが振り向いて、多田さんたちの元へと近づいていってしまった。
「……植村くん!」
「こいついじめてんのって、あんたら?」
声は辺りに響き渡るような声量で、六人が一斉に振り向いた。
多田さんの笑顔が消えて、目の奥が臨戦体制になっている。
恐怖に足がすくんだ。
怖い。
植村くんの方が目つきは鋭いはずなのに、私はいつだって、多田さんのアイプチをしたぱっちりした目の方が怖いと感じる。
「なに?」
「お前だろ、中学の頃からこいつに嫌がらせにしてんの。何のつもりだよ。こいつがどんだけへこんでんのか、知らねーのか」
「は? 私、笠井をいじめたことなんかないけど」
植村くんが一瞬声を失った。
多田さんはしらばっくれてるわけじゃない。
忘れているんだ。多田さんは私の呪いのせいで、平日の五日間しか私のことを覚えていないから。
後ろから、必死に植村くんの服を引っ張る。
でも植村くんに立ち去ろうという意思はない。
「……人の気持ち散々削っといて、全部忘れてんだから幸せだよなぁ」
……だめだ。
植村くんの表情は見えないけれど、おそらくすごい目つきで彼らを睨んでいることだろう。でも六人はそれに物おじしないどころか、楽しそうにニヤニヤと笑っている。
多田さんはバッグからスマホを取り出すと、それを横にしてこちらに向けた。
動画を撮るつもりだ。
「あんた、中学の時ケンカっ早くて有名だったからね。なんかしてくるなら記録残すよ」
「……暴力は、もうしない。あの時のことは反省してるから」
「あは、カッコイイ」
多田さんの前に立つ植村くんは威圧的だ。でも多田さんも引く気はなく、おまけに後ろの男の子たち三人まで前に出てきて、一触即発の雰囲気になってしまっている。
どうしよう。
どうしたらいい?
大事になったら、まずい。今すぐ植村くんを止めて、逃げなきゃいけないのに。
でも、足が震えて何もできない。
喉の奥がぴったりと張り付いて、声も出てきてくれない。
……何度も耐えてきたのに。
嫌なことを言われても、どうにか見なかったふりをして受け流してきたのに。
怖い。怖くてたまらない。
やっぱり私は、怖いんだ。
多田さんを前にすると、今まであったあらゆる嫌がらせがフラッシュバックする。
それから身を守るように、体が固まってしまう。
受け流せてなんかない。
消えてなんかない。
すべての苦しみは積み重なって、私の心の奥に沈んでいる。
「笠井ぃ。王子サマの後ろに隠れてないでなんか言えよ」
多田さんが首を傾けて、私を狙ってきた。
びくり、と体が揺れる。自分がいつのまにか植村くんの影に隠れていることに気づいて、情けなくて消えてなくなりたくなった。
植村くんも振り向いて、私に目配せをする。
「思ってること、全部言ってやれよ。俺が手は出させねーから。言いたいこと、いろいろあるんだろ」
「え……」
多田さんが植村くんをよけるようにして私の前にやってきた。
でも、手足が痺れて、体が自分のものじゃないみたいで、パニックで。
何も、言葉が思いつかない。
〝もし大事になって学校で問題になったら、お母さんが悲しむ〟
〝私の記憶は消えたとしても、植村くんの記憶はずっと残るんだから下手なことはできない〟
いろんな感情が駆け巡る。
でも。
……違う。
私が動けないのは、それが理由じゃない。
私の心を占めているのは、ひとつだけ。
怖い、という、気持ちだけ。
向き合うのが、怖い。
戦うのが、怖い。
だって、私は負ける。きっと何を言っても負ける。
多田さんは、強いから。何を言っても返せる言葉と、仲間たちがいるから。
そして私はまた、ずたぼろになるまで心を刺されるんだ。
だったら何も言わない方がいい。
逃げてしまった方がいい。
立ち向かったって、ろくなことにはならない。弱い人間は、逃げ続けることしかできないのだから。
植村くんには、わからない。
——私は植村くんみたいに、強くない。
「……ごめん、なさい」
誰にも聞こえない声で呟くと、私は後ろを振り向き、その場から逃げ出した。