誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
*
次の日、学校の最寄駅に着き電車から降りると、いつものように植村くんがホームの向こうに立っていた。
人混みを縫うようにして向けられる、静かな視線。でもその顔をうまく見返せず、植村くんの〝おはよう〟の合図を待たずに俯いてしまった。
昨日、植村くんを残して逃げてしまった罪悪感が心を支配していて、とても顔を合わせることなんてできない。
あのあと、どうなったんだろう。
大丈夫だっただろうか。
多田さんの話の中心にいるのは私だけれど、植村くんは喧嘩腰だったから、私がいなくなった後でも何かあったかもしれない。でも、気になっているのに連絡ができなかった。
怖くて……。
これ以上、傷つきたくなくて。
スマホから目を背け続けて、結局夜が明けてしまった。
ひとまず今、植村くんと顔を合わせたのだから今日の記憶はつながる。このまま学校へ行ってしまおうと改札に足を向けると、鞄の中がぶるりと震えた。
スマホのバイブだ。
着信。
画面に映る名前は——植村、陸。
「はよ」
「……おはよう」
電話に出て振り返ると、植村くんもスマホを耳に当てていた。
どうしよう。
何を言われるの?
恐怖が体を包む。
マナー違反にならないよう、ひとまず人のいない壁際に寄った。植村くんもいつのまにかホームの奥の方に寄っていて、混雑するホーム上で互いの姿はわずかにしか見えなくなった。
植村くんはたまに電話はしてくるけれど、朝、すぐ目の前のホームにいるのに連絡をしてくるのははじめてのことだ。
そんなことをする理由といえば、どうしても話したいことがあるから、としか思えない。
緊張して、声がうまく出そうにない。
「あのさ。今ちょっと、話してもいい? 遅刻する?」
「……平気……。……だけど、こんなところで電話してたら、誰かに怒られるかも……」
「でもそっちのホームに行くと、またクラスの誰かにいちゃもん言われるんだろ」
その通りだった。
前に私が言ったこと、ちゃんと覚えてたんだ。
ふと見せてくる気遣いに、心が柔らかくなっていく。第一声で怒られると思ったのに。
なんだか涙が出そうになった。
やさしさに触れると、弱くなる……。
でもやさしいからって、甘えていいわけじゃない。
人を盾にして、自分だけ逃げるなんて、最低の行動だった。
「昨日は……ごめんなさい。せっかく植原くんが後押ししてくれたのに、私、一人で逃げて……」
植村くんの方に用件があったはずなのに、つい先に話してしまった。
それもまた身勝手な行動に思えて、自分が嫌になる。でも植村くんは何も言わなかった。
ただ、スピーカーの向こうでふっと息だけで笑う音がした。
「ほんとなー。二対六のあの状況で、仲間置いてくなんてお前、白状なやつだよな」
「うん……」
返す言葉もない。
あの場に植村くんだけを置いて逃げるなんて。こんなことになったのは、元はといえば自分のせいなのに。
もっと罵倒してもいいのに、植村くんはそれ以上何も言わなかった。
私がもう一度、ごめんなさいと言ったところで、植村くんがわざとらしく話を変えた。
「……今日さ。ガッコ行ったら、またあいつらに嫌がらせされる?」
視線が下がる。
今履いてるローファーの中に、六時間目の終わりには生ゴミを詰められているところを想像したら、吐き気がした。
「……される……かも」
今日はそれが憂鬱だった。
せっかくの月曜なのに、いじめが始まることが確定的だからだ。
〝笠井って不良と付き合ってるんだって〟
〝私この前道端で笠井の彼氏と会って、殴られそうになって逃げたの。やばくない?〟
〝笠井もそのうち彼氏の色に染まるだろうから、近づかない方がいいよ〟
そんなふうに言いふらされるのが目に見える。クラスのみんなに変な噂を流されて、私はこの先の五日間、のけ者扱いされるのだろう。
スマホの向こうがしんと静まる。
駅の構内は次々に到着する電車の音や人の歩く音に満たされているはずなのに、私の耳には植村くんの気配しか届かなかった。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくして、小さな呟きがスピーカーの奥から聞こえてきた。
「……逃避行でも、する?」
思わず顔を上げた。
壁際から見た向こう岸の植村くんは、距離が離れすぎて表情がほとんど見えない。
でも、冗談を言ってるわけじゃない。
本気なのだと、声色でわかった。
「一日離れれば、日曜の記憶は忘れられるんだろ? だったら、今日だけどっか行こうぜ。これから」
心が揺れる。
それは、今までにも考えたことがあった。
週の早い段階からいじめが始まった日。
いつにも増して、ひどい嫌がらせを受けた日。
一日学校に行かないだけで、解決できる。本当は土日を待たずとも、いつだって記憶のリセットはできる。
だけど……。
「……しない。無断欠席して、親に心配かけたくないの」
今までそうしなかったのは、お母さんに余計な不安を与えたくなかったからだ。
だから、学校は休まなかった。成績も落とさなかった。勉強もがんばって、身なりもきちんとして、お母さんが安心して仕事に行けるように努めた。
いじめのことは、結局先生には言わなかった。
お母さんにも。
どれだけ多田さんが怖くても、やっぱりお母さんに心配をかけたくなかったから……。
「おーおー、家族想いなこった」
植村くんの声色がまたおちゃらけたものに戻る。私は笑いはしなかったけれど、植村くんがいつもの雰囲気に戻ったことに少し安心した。
植村くんのことを他人だ、関係ない、と思い続けていた私が、今はいつもの植村くんでいてほしいと願っている。
なんだか、不思議だった。
「あの……。昨日、私がいなくなってから……大丈夫だった?」
ようやく、一番聞きたかったことを口にした。
自分で逃げたくせに気になって気になって、昨日はろくに寝れなかった。
「あー、別に何も。あーだこーだ言い合ったあと解散したよ。お前に嫌がらせすんなって言っておいたから、これからは少しは変わるといいんだけど……やっぱ変わんねーかなぁ」
「……いいの。植村くんに被害がなかったならなんでも……。植村くんはもう、あの人たちに関わらないで」
私の味方になってくれたことはうれしいけれど、とにかく何もなかったことにほっとした。
その時、向こうのホームでアナウンスが鳴った。もう次の電車が来るみたいだ。
はじめて植村くんにホームで話しかけられた時、私に話しかけたせいで遅刻だと言っていた。もう遅いかもしれないけれど、ここで長々と話してさらに遅刻させるわけにはいかない。
じゃあ、と言って切ろうとすると、植村くんに待って、と言われて引き止められた。
「……あのさ。俺、お前をいじめてるやつらをどうするかは呪いを解いてから考えようと思ってた。どうするにせよ、周りに忘れられ続けてたら話を進められないだろうから。でも……お前にとってあいつらの嫌がらせは、後回しになんてできない、大きい問題なんだよな。そういうこと、考えてなかった。……ごめん」
そこまで言うと、私の返事を待たずに電話は切れた。
ちょうどやってきた電車に隠れて、植村くんの姿が見えなくなる。じっと電車の中を見ていたけれど、混雑した車内で植村くんを見つけることはできず、電車はそのまま行ってしまった。
植村くん……私のいじめのことも考えてくれてたんだ。
呪いを解くことしか考えてないんだと思ってたのに……。
なんでこんなに私をフォローしようとしてくれるのかわからない。
でも、だからって何から何まで甘えるわけにはいかない。
これは私の問題。
いじめのことまで植村くんに頼って、全部解決してもらおうとは思わない。本当は、呪いのことも同じ。
多田さんが植村くんのことを知っている以上、植村くんにも何か危害を加えられるかもしれないんだ。
もう、植村くんには頼れない。
ただ……。
スマホ越しに感じた、植村くんの不器用なやさしさ。
それに、今だけは浸っていたかった。
次の日、学校の最寄駅に着き電車から降りると、いつものように植村くんがホームの向こうに立っていた。
人混みを縫うようにして向けられる、静かな視線。でもその顔をうまく見返せず、植村くんの〝おはよう〟の合図を待たずに俯いてしまった。
昨日、植村くんを残して逃げてしまった罪悪感が心を支配していて、とても顔を合わせることなんてできない。
あのあと、どうなったんだろう。
大丈夫だっただろうか。
多田さんの話の中心にいるのは私だけれど、植村くんは喧嘩腰だったから、私がいなくなった後でも何かあったかもしれない。でも、気になっているのに連絡ができなかった。
怖くて……。
これ以上、傷つきたくなくて。
スマホから目を背け続けて、結局夜が明けてしまった。
ひとまず今、植村くんと顔を合わせたのだから今日の記憶はつながる。このまま学校へ行ってしまおうと改札に足を向けると、鞄の中がぶるりと震えた。
スマホのバイブだ。
着信。
画面に映る名前は——植村、陸。
「はよ」
「……おはよう」
電話に出て振り返ると、植村くんもスマホを耳に当てていた。
どうしよう。
何を言われるの?
恐怖が体を包む。
マナー違反にならないよう、ひとまず人のいない壁際に寄った。植村くんもいつのまにかホームの奥の方に寄っていて、混雑するホーム上で互いの姿はわずかにしか見えなくなった。
植村くんはたまに電話はしてくるけれど、朝、すぐ目の前のホームにいるのに連絡をしてくるのははじめてのことだ。
そんなことをする理由といえば、どうしても話したいことがあるから、としか思えない。
緊張して、声がうまく出そうにない。
「あのさ。今ちょっと、話してもいい? 遅刻する?」
「……平気……。……だけど、こんなところで電話してたら、誰かに怒られるかも……」
「でもそっちのホームに行くと、またクラスの誰かにいちゃもん言われるんだろ」
その通りだった。
前に私が言ったこと、ちゃんと覚えてたんだ。
ふと見せてくる気遣いに、心が柔らかくなっていく。第一声で怒られると思ったのに。
なんだか涙が出そうになった。
やさしさに触れると、弱くなる……。
でもやさしいからって、甘えていいわけじゃない。
人を盾にして、自分だけ逃げるなんて、最低の行動だった。
「昨日は……ごめんなさい。せっかく植原くんが後押ししてくれたのに、私、一人で逃げて……」
植村くんの方に用件があったはずなのに、つい先に話してしまった。
それもまた身勝手な行動に思えて、自分が嫌になる。でも植村くんは何も言わなかった。
ただ、スピーカーの向こうでふっと息だけで笑う音がした。
「ほんとなー。二対六のあの状況で、仲間置いてくなんてお前、白状なやつだよな」
「うん……」
返す言葉もない。
あの場に植村くんだけを置いて逃げるなんて。こんなことになったのは、元はといえば自分のせいなのに。
もっと罵倒してもいいのに、植村くんはそれ以上何も言わなかった。
私がもう一度、ごめんなさいと言ったところで、植村くんがわざとらしく話を変えた。
「……今日さ。ガッコ行ったら、またあいつらに嫌がらせされる?」
視線が下がる。
今履いてるローファーの中に、六時間目の終わりには生ゴミを詰められているところを想像したら、吐き気がした。
「……される……かも」
今日はそれが憂鬱だった。
せっかくの月曜なのに、いじめが始まることが確定的だからだ。
〝笠井って不良と付き合ってるんだって〟
〝私この前道端で笠井の彼氏と会って、殴られそうになって逃げたの。やばくない?〟
〝笠井もそのうち彼氏の色に染まるだろうから、近づかない方がいいよ〟
そんなふうに言いふらされるのが目に見える。クラスのみんなに変な噂を流されて、私はこの先の五日間、のけ者扱いされるのだろう。
スマホの向こうがしんと静まる。
駅の構内は次々に到着する電車の音や人の歩く音に満たされているはずなのに、私の耳には植村くんの気配しか届かなかった。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくして、小さな呟きがスピーカーの奥から聞こえてきた。
「……逃避行でも、する?」
思わず顔を上げた。
壁際から見た向こう岸の植村くんは、距離が離れすぎて表情がほとんど見えない。
でも、冗談を言ってるわけじゃない。
本気なのだと、声色でわかった。
「一日離れれば、日曜の記憶は忘れられるんだろ? だったら、今日だけどっか行こうぜ。これから」
心が揺れる。
それは、今までにも考えたことがあった。
週の早い段階からいじめが始まった日。
いつにも増して、ひどい嫌がらせを受けた日。
一日学校に行かないだけで、解決できる。本当は土日を待たずとも、いつだって記憶のリセットはできる。
だけど……。
「……しない。無断欠席して、親に心配かけたくないの」
今までそうしなかったのは、お母さんに余計な不安を与えたくなかったからだ。
だから、学校は休まなかった。成績も落とさなかった。勉強もがんばって、身なりもきちんとして、お母さんが安心して仕事に行けるように努めた。
いじめのことは、結局先生には言わなかった。
お母さんにも。
どれだけ多田さんが怖くても、やっぱりお母さんに心配をかけたくなかったから……。
「おーおー、家族想いなこった」
植村くんの声色がまたおちゃらけたものに戻る。私は笑いはしなかったけれど、植村くんがいつもの雰囲気に戻ったことに少し安心した。
植村くんのことを他人だ、関係ない、と思い続けていた私が、今はいつもの植村くんでいてほしいと願っている。
なんだか、不思議だった。
「あの……。昨日、私がいなくなってから……大丈夫だった?」
ようやく、一番聞きたかったことを口にした。
自分で逃げたくせに気になって気になって、昨日はろくに寝れなかった。
「あー、別に何も。あーだこーだ言い合ったあと解散したよ。お前に嫌がらせすんなって言っておいたから、これからは少しは変わるといいんだけど……やっぱ変わんねーかなぁ」
「……いいの。植村くんに被害がなかったならなんでも……。植村くんはもう、あの人たちに関わらないで」
私の味方になってくれたことはうれしいけれど、とにかく何もなかったことにほっとした。
その時、向こうのホームでアナウンスが鳴った。もう次の電車が来るみたいだ。
はじめて植村くんにホームで話しかけられた時、私に話しかけたせいで遅刻だと言っていた。もう遅いかもしれないけれど、ここで長々と話してさらに遅刻させるわけにはいかない。
じゃあ、と言って切ろうとすると、植村くんに待って、と言われて引き止められた。
「……あのさ。俺、お前をいじめてるやつらをどうするかは呪いを解いてから考えようと思ってた。どうするにせよ、周りに忘れられ続けてたら話を進められないだろうから。でも……お前にとってあいつらの嫌がらせは、後回しになんてできない、大きい問題なんだよな。そういうこと、考えてなかった。……ごめん」
そこまで言うと、私の返事を待たずに電話は切れた。
ちょうどやってきた電車に隠れて、植村くんの姿が見えなくなる。じっと電車の中を見ていたけれど、混雑した車内で植村くんを見つけることはできず、電車はそのまま行ってしまった。
植村くん……私のいじめのことも考えてくれてたんだ。
呪いを解くことしか考えてないんだと思ってたのに……。
なんでこんなに私をフォローしようとしてくれるのかわからない。
でも、だからって何から何まで甘えるわけにはいかない。
これは私の問題。
いじめのことまで植村くんに頼って、全部解決してもらおうとは思わない。本当は、呪いのことも同じ。
多田さんが植村くんのことを知っている以上、植村くんにも何か危害を加えられるかもしれないんだ。
もう、植村くんには頼れない。
ただ……。
スマホ越しに感じた、植村くんの不器用なやさしさ。
それに、今だけは浸っていたかった。