誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
第五話



 指定された四人部屋に行くと、窓際のベッドのひとつだけ間仕切りカーテンが開けられていて、その隙間からうとうととしているお母さんの顔が見えた。
 お母さんは歳の割にすぐ寝てしまう。小さい赤ちゃんみたいで、なんだかかわいい。
 でもそれは体質などではなく、日頃から疲れが溜まっているからなのだろうと思うと切なくて、何もできない自分が憎くなってしまう。
 今回のことも、そう。
 私がもっとお母さんに協力できていれば。
 無理してるお母さんをもっと労ってあげられてたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに……。
 そっと近寄って、目をつむるお母さんの顔を覗き込んだ。
 思いのほか多く見える、皺。お母さん、こんなに疲れた顔してたっけ。
 私の前ではいつも元気そうにしているのに、寝ている時だけ本当の姿が見えてしまう。それは私も同じで、私たちはお互いに大事に思っているからこそ演技し合っている。
 それがいいことなのか、悪いことなのかはよくわからない。

「……栞莉! やだー、ごめんね。待ってたのに寝ちゃってた」

 ふとお母さんが目を覚まして、寝起きとは思えないテンションで叫んだ。
 私は、しー、と口元に指を当てる。

「起こしてくれたらよかったのに。いつ来たの?」
「たった今だよ。それより、体大丈夫? まだつらいところある?」
「元気元気。朝ご飯ももりもり食べちゃった。でも、栞莉が作るご飯が恋しくて。寂しいなー」

 お母さんの自然な笑顔。でも自然であればあるほど無理をしているのだと感じてしまって、笑い合っているのに切なくなってしまう。
 昨日、お母さんは職場で倒れたらしい。
 原因はおそらく、持病の貧血と過労。
 昨日の夜は留守電を聞いて折り返したあと、着の身着のまま病院へ向かった。お医者さんの話では、これから数日念のため検査をして何もなければ退院できるだろうとの話だった。
 無理してたんだ。
 そんなの、わかってた。
 わかってたのに、何もできなかった。
 私は私のことで精いっぱいで。多少は手伝っているつもりでも、大したことはできていなかった。
 今となっては、植村くんと勿忘(ワスレナ)の池にいた時間を使って、お母さんのために何かできることはあったのではないかと思ってしまう。悔しさが胸を満たしていく。
 でも今は、お母さんの前でうじうじと考えている場合じゃない。

「えっと、これ……」

 大きな鞄をパイプ椅子に置いた。
 指示されて持ってきた、入院に必要な荷物セットだ。
 タオルに歯ブラシ、テレビ用のイヤホンに雑誌など。朝方までお母さんのタンスを開けては閉めて、他に必要そうなものはないかと悩んで取り揃えた。

「わぁ、ありがと。助かる〜。でも昨日も遅かったし、今日もこんな朝早くから来て大丈夫だった? 疲れてない?」
「いいの。暇だったから」

 しばらく、持ってきた荷物を片付けながらおしゃべりをした。
 運ばれた病院は都心にあり、かなりきれい。白を基調としたシンプルな部屋は安心感がある。
 入院費については不安がよぎったけれど、今はお母さんが安心できる環境と体の回復が優先だ。

「今日、ずっといてもいい?」

 面会時間は夜の八時まで。同室の人の邪魔なんかにならなければ、何時間いてもいいらしい。
 でも、お母さんは困ったように眉をハの字にする。

「なに言ってるの。せっかくのお休みでしょ、帰ってゆっくりしなさいよ」
「一人でいてもつまんないし」

 そう言うと、土日はだいたいお母さんいないじゃない、と言って笑った。でもその笑顔がやっぱりうれしそうで、本当は寂しがりやのお母さんはお節介なくらいがちょうどいいのだろうと思えた。
 何もできないけれど。
 お母さんのそばにいたい。
 それに、帰ったら植村くんのことを考えてしまいそうだから……。
 荷物を片付けると、他の患者さんの邪魔にならないようロビーに移動した。
 窓ガラスの向こうには無機質なビルが並んでいて、この街ならしっかりした医療をお母さんに提供してくれそうに見えた。
 なのに、お母さんが私を置いて随分と遠いところに来てしまったような気がして、寂しくなる。
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