誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「栞莉は昔から聞き分けがよくて、私のことばかり気にして。自分の人生を楽しめてないんじゃないかと思ってね。それがずっと気になってたのよ」

 唇を噛む。
 反論の言葉が思いつかない。

「そんなこと、ないよ」

 いじめのことが頭をよぎった。
 いじめについては、相談すればお母さんの負担になってしまいそうだからやっぱり話せない。
 それに、つらくてもこれは永遠に続くわけじゃないから。多田さんは今は一年生だから私にちょっかいを出してくるけれど、受験シーズンにでもなれば落ち着くかもしれない。それまで、どうにかやり過ごすしかない。
 ……もし、お母さんの言葉がその通りだとしても。
 そうやって、気を遣うのは当たり前じゃない?
 家族なんだから。
 大切な人なんだから。
 お母さんは入院を軽く見ているけれど、検査の結果次第では大きな病気だって出てくるかもしれない。どうせ明日も休日なんだし、毎日来たって親離れできていないと言われるほどのことじゃない。
 でも、お母さんは私の返事を受け止めつつ、言葉を足した。

「私の願いはね、栞莉が自由に生きることなの。だから私が栞莉のことをかまっても、栞莉は私のことを気にしないで。思うように生活してね」

 複雑な気持ちになるものの、ただ頷くことしかできなかった。
 お母さんを置いて、私は幸せになんかなれない。
 お母さんにつらい思いをさせてまで、自分の問題を解決することなんてできない。
 でも……。
 何も相談できない私。
 いじめのことも呪いのことも、何ひとつお母さんには話せていない。
 それが苦しいのは、たしか、だけど……。

「ね。電話、電源入れたら?」

 急に違う話をされて、いつのまにか俯いていた顔を上げた。

「……え?」
「さっきから、ずっと気にしてたでしょ。スマホ」

 思わずバッグの中を見下ろした。
 ずっと電源を切っていた、スマホ。忘れていたつもりだったのに。
 気にしてた?
 私が?
 スマホの電源を入れると、何件もの着信履歴が残っていた。
 そうか……もう二十時。
 植村くん……。
 いったんロビーに行き、通話可能エリアでいくつかの留守電を聞くと、やっぱりどれも同じ内容だった。

〝どこにいんだよ〟
〝電話出ろ、バカ〟
〝今、駅前に来てる。とりあえず待ってっから〟

 私を呼ぶ、植村くんの声。
 怒った顔が目に浮かんで、胸が苦しくなる。
 いくつかの留守電を聞き終え、いったん病室に戻ろうとすると、お母さんがそのまま帰りのお見送りをしようとやってきた。

「男の子?」

 いつものニヤニヤ顔で聞いてくる。
 そういえば植村くんのことは話しても不都合はないのに、つい照れ臭くて否定していた。

「ち……ちがうよ。女の子の友達……」
「ちがうの? おかしいなぁ、母のカンはよく当たるのに」

 ……本当にね。
 とりあえず今は何もできないから、スマホをバッグにしまった。
 二人でエレベーターを待っていると、お母さんが静かに話し出した。

「今日はありがとう。でも栞莉は、栞莉の人生を大切にね。友達とたくさん遊んで、気が向いたら恋でもして、好きなように生きて。それが私の望みなんだからね」

 お母さん……。
 不意に触れた右手をぎゅっと握り、笑顔を向け合った。
 エレベーターが閉まる一ミリ前まで、お母さんに手を振る。無音のまま世界は遮断され、私はまた一人、戦場へと戻る。
 植村くんの記憶が消えるまで、四時間と少し。
 お母さん……。
 私はいまだに、どう生きたいのかわからないの。


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