誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
 *



「……お母さん。もし私が不良になっちゃったら、どうする?」

 ある朝、いつものように朝ご飯を作りながら、さりげなくお母さんに聞いてみた。
 特に大きな病気も見つからず、元気いっぱいで退院できたお母さん。最近では職場で業務量を減らしてもらったらしく、いつも以上に顔色もいい。
 自己申告性の〝元気〟を疑ってしまう時もあるけれど、今はお母さんを信じて、いつもと同じように接している。

「えー、栞莉が不良? どういうこと?」
「えっと……たとえば、悪さして、先生に呼び出されるとか……」
「栞莉が? そんなことになったらびっくりだなぁ」

 お母さんはテーブルの上の置いたフレンチトーストに目を輝かせている。朝からお母さんの大好物を作ってしまった、このタイミングで聞く話じゃなかったのかもしれない。
 多田さんと取っ組み合いの喧嘩をしてから何日が経っただろう。
 あの日から、多田さんは度々私に突っかかってくるようになった。
 今までは平日の五日間のうち一度も接触しないこともあったのに、もうその均衡は崩れてしまった。多田さんは毎週どこかでふと植村くんのことを思い出し、私に彼と付き合っているのかと聞いてくると、最終的に悪口に発展した。
 私も毎回それに応戦してしまうのだから、止まりようもなかった。
 別に、一度タガが外れたからという理由で喧嘩し続けてるわけじゃない。
 やっぱり、植村くんのことを悪く言われるのは許せなかったから。
 そしてもうひとつ——私が多田さんに立ち向かうのは、この状況を勿忘(ワスレナ)の池の神さまが見ているかもしれないと思ったから。
 中学の頃、いじめから逃げ出したい私を見かねて神さまが願いを叶えてくれたのだとしたら、変わった私を見せることで願いを取り下げてくれるんじゃないかと思ったのだ。
 別に、戦いたいわけじゃない。
 こんな状況、最悪でしかない。
 でも、どんな方法でもやってみたいと思った。当てずっぽうでいいから、思いつくことはなんでも試してみたかった。
 幸せからは、逃げない。
 それは植村くんが最後に教えてくれた、大切な言葉。

「なに? 栞莉、学校で何か悪いことしてるの?」

 お母さんは秒でフレンチトーストを食べ切ると、付け合わせの野菜たちはそのままに、テーブルに前のめりになった。
 悪いことは、しているといえばしている。
 毎週、取っ組み合いの喧嘩をしている。
 でも先生は特に記録としては残してはいないのか、毎週〝はじめて〟喧嘩をしている私たちに対して事を荒立てようとはしなかった。だから今のところ、親を呼び出すといった雰囲気もない。
 でも、いつか本当にお母さんに迷惑をかけるかもしれない。
 そうなった時のことを思うと、罪悪感に押しつぶされそうになる。
 そのまま声を出せずにいると、お母さんはサラダの脇に置かれたミニトマトを指先で拾い上げた。

「……いいよ。栞莉がもし不良になったとしたら、それには理由があるんでしょう。そこに何か問題があるとしたら、それを解決できるように私も努めるから。不良でいたいなら、そのままでもいいから。好きにやってごらん」

 いつもと変わらない笑顔でトマトを口に放り込む。
 フォークを持ったままお母さんの言葉を頭の中で繰り返していると、お母さんはトマトを飲み込んで、お行儀悪く両肘をテーブルに置いた。

「栞莉。私に話したいこと、ない?」

 意表をつかれる。
 いつもなら、すぐさまない、と言い切るのに。
 あまりに突然のことに、心の奥の言葉がするりと出てきた。

「……あ、る」
「じゃあ、話して。今じゃなくてもいいから。いつでもいいから。本当は不良になる前に相談してほしいけど、不良になってからでもいいよ。何を言われても、お母さんは栞莉の悩みが解決するまでそばにいるから」

 そう言うと、お母さんはまたフォークを手にして苦手なレタスと向き合い始めた。
 ……そうだ。
 お母さんは、生まれた時から私の一番の味方。
 そんなお母さんを、私のせいで苦しめたくはないけど。
 でも……きっと、話せばわかってくれる。
 その安心感が、じんわりと体の隅々まで行き渡っていった。
 いつか、きっと話すから。
 言える範囲で、かもしれないけれど。今度は思い詰める前に、ちゃんと話すから。
 だから今は、私のことを見ていて。
 私のことを、静かに、支えていて。
 ありがとう、と呟くと、やっぱり泣きそうになって、慌ててフレンチトーストにかぶりついた。


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