誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
 *


 池にお祈りをして、多田さんの挑発に毎回立ち向かってみても、呪いが解けることはなかった。
 私の記憶は消されてしまう。土日を挟んで学校に行くと、私はいつもの〝友達のいない、ただクラスが同じというだけのクラスメイト〟に戻ってしまう。
 諦めようとは思っていない。でも、やり方を考えなければいけない段階に来ていることはわかっていた。
 このまま大人になることはできない。
 その前に、この呪いが人生に支障をきたして、生きていくことを放棄する日が来るかもしれない。
 そうなる前に、どうにかしないと……。
 そんな、ある日のことだった。

「——笠井、栞莉?」

 いつものように電車を降り、学校へ向かおうと駅を出たところで声をかけられた。
 ぴくりと体が揺れ、足を止める。
 これから電車に乗る人や、降りた人たちで混雑している駅前。走ってきたのか、息を乱したまま私を見つめる男の子の姿が目に入る。
 ——植村くん。
 胸が鳴って、呼吸が揺れた。
 コートの下に覗く、相変わらずの派手な赤シャツ。
 裾の汚れただるだるのズボンに、ところどころ禿げたローファー。
 二週間会わなくなって、ただひとつ変わったところといえば、トレードマークの金髪が少し落ち着いた色に見えるくらい。
 植村くん、だ……。
 ……なんで、ここに。
 植村くんに会わないように、あれから少し早い電車に乗るようにしていたのに。
 時間にはちゃんとしている植村くんだから、もう会うことはないはずだったのに。
 そう思ったところで、今朝は電車が遅延していて、到着が少し遅れていたことを思い出した。

「あー……すんません。ちょっといいすか。ガッコ、遅刻する?」

 断るべきだったのかもしれないのに、反射的に首を振ってしまった。
 わざわざ自分の降りる駅でもないのに追いかけてきた植村くんを、無碍にすることもできなかった。
 でも、緊張して声が出ない。

「俺、植村ってんだけど。あんたの生徒手帳持っててさ。なんで持ってんのかよく覚えてないんだけど、さっきあんたの顔が見えたから、返さないとなって思って……」

 生徒手帳。
 そういえば、取られたままだった……。
 中には私の顔写真がついた学生カードも入っている。それを確認していたから追いかけてきたのだろう。
 手帳を差し出され、ゆっくりと受け取る。
 手にするとなんだか懐かしい気持ちになって、じんと心が温かくなった。
 ずっと植村くんのズボンのポケットに入れっぱなしだったのか、前よりも角が寄れている。同時に、表紙から植村くんのかすかな体温が伝わってきて、何度か植村くんに触れられた時のような、あの感覚が呼び戻ってくる。
 生徒手帳を見つめていると、植村くんがぽつりと呟いた。

「……俺、あんたとちょくちょく会ってたよな」

 顔を上げると、いつも横柄な感じの植村くんの表情から、気まずそうな空気が流れていた。

「でも、悪い。俺、なんであんたと会ってたのか思い出せなくて……。スマホにも着信履歴がたくさん残ってんだけど、なんでかけたのか、思い出せなくて。気になって……」

 視線が揺れて、私の腕の辺りを行き来している。
 でも思い切ったように、釣り上がった目が私に向けられた。

「なんで、会ってたんだっけ?」

 植村くんにとっては私は初対面のようなものなのに、結局聞きたいことは聞いてしまうところが植村くんらしい。
 でも、言えなかった。
 私がいじめられているのを見て、話しかけてくれたのがきっかけだったとか。
 私の呪いを解こうと、二ヶ月と少し、ずっと二人で奮闘していたこととか。
 何も、言えない。私はもう植村くんと関われない。
 けど、じゃあ、なんて答えればいいんだろう。

「えっ……と……」

 今度は私が視線を外してまごついていると、後ろから走ってきた学生にぶつかって生徒手帳が落ちてしまった。
 拾おうとする植村くんを制して、私が拾う。その拍子に、開かれた手帳の中に見覚えのない文字が書かれているのに気づいて、植村くんに背を向けてそれを確かめてしまった。
 汚い字。
 私が書いたものじゃない。
 それは自由にメモ書きできるフリースペースに一言、罫線を無視して斜めに書き殴られていた。

〝カサイシオリから離れるな〟

 ……植村くん、だ。
 記憶が消える前の、最後のメッセージ。
 手帳を手に取り、植村くんを見上げる。でも彼はきょとんとした顔で私を見つめるだけだった。
 そうか。
 植村くんが、ずっと手帳を返してくれなかった理由……。
 それは、万が一私の記憶がなくなってしまった時、手がかりとして私のものを持っていたかったからなのかもしれない。
 私を忘れたとしても、私と何らかのつながりがあったことを思い出せるように。
 そしてあわよくば、私との記憶を取り戻せるように。
 でも、今の植村くんは気づいてない。
 たぶん記憶をなくしてから生徒手帳の存在に気づいて、私の情報が載っている最初のページしか見なかったのだろう。生徒手帳は個人情報。最初に出会った時とは違う、ただ持ち主を確認するために覗いただけだから、他のページを無闇に見ることはなかった。
 ……自分のことなのに。
 植村くんは本当はまじめな人で、人の手帳を隅々まで見るわけないって、思わなかったのだろうか。

「……私……あなたに駅で、生徒手帳拾ってもらったんです。それでちょっと意気投合して、たまに会ったりしてて……。でもそのたびに、生徒手帳返してもらうの忘れて。……バカですよね」

 答えると、植村くんはじっと私の顔を見つめた。
 何かを探っているのか、それともただ素直に私の言葉を信じているのかはわからない。

「……私、今度引っ越すんです。だから最後にちょっと電話したんですよね。でも、たいしたこと話してないんですよ。実は私もあなたのこと、忘れてたくらいなので。だから……」

 小さく会釈をした。

「気にしないでください。手帳、ありがとうございます」

 手帳を強く握って、元の位置、ブレザーの胸の奥に収めた。
 これが、植村くんと私が友達だった証。
 挫けそうになった日は、植村くんの字を見て、勇気をもらおう。
 この先呪いが解けなかったとしても、この思い出を大切にしまったまま生きていこう。
 私には、たしかに友達がいた。
 誰よりもまじめに私と向き合ってくれた、不良の、やさしい友達。
 目の奥がじんと痛くなる。
 それを、左足の踵で右足を蹴りつけながら耐えた。

「そっ……か」

 植村くんは煮え切らない表情だったものの、なんとか私の言葉を受け止めていた。
 それもそうだろう。何を言われたって、思い出のひとつも思い出せないのだから。
 たしかに会ってはいたのに、その内容をひとつも思い出せないなんてこと、普通はありえない。

「……ごめん、なんかいろいろ忘れてて……。俺、すげーバカだから、忘れっぽいのかも」

 初対面なのに、なんだかやさしい。前に〝初対面〟だった頃には、あんなにキツい言い方だったのに。
 そのやさしさが、記憶の消えた前の植村くんを引き継いでいる証拠だったとしたら、うれしいな、と思う。

「……じゃあ」

 小さく呟くと、歩き出した。
 いつものロータリーを抜ける。道の脇に植わっているシクラメンの花たちが、私を励ますように明るく色づいている。
 よく晴れた空を仰ぎ、数秒ほど目をつむってから、通学路を歩き始めた。
 ……引っ越す、なんて言ってしまった。
 明日からはもっと早い電車に乗らないといけなくなる。電車がちょっとやそっと遅延したところで、植村くんとすれ違わないように。
 もう二度と、彼に心配なんかかけないように。
 一刻も早く、呪いを解こう。そして、植村くんが安心できるような楽しい学校生活を送ろう。
 ……そう思ってるのに。
 また、ぶり返してしまった。
 植村くんが記憶をなくして、二週間。私の生徒手帳をズボンのポケットに入れていた植村くんは、すぐにその存在に気づいたはずだ。
 生徒手帳なんて、学校に届けてくれてもよかったのに。
 私の電話番号は把握していたのだから、私に聞きたいことがあったのなら電話でもして、あとは交番に預けておくことだってできたはずなのに。
 たぶん、植村くんは駅で私を探していたんだ。
 私をこの駅で見かけていた記憶があったから。
 他にもいろんな方法はあったのに、植村くんはちゃんと私と会おうとしてくれた。向かいのホームなんてほとんど顔は見えないのに、それでもこの二週間、私がいないかと探してくれた。
 そして話を聞いて、手渡しで、手帳を返そうとしてくれていた……。
 植村くんのことばかり考えてしまう。
 もう終わったことなのに。
 切り替えないといけないのに。
 こんなんじゃ、呪いを解く案なんて、とても考えられない。

〝……植村くん。私一応、笠井栞莉って名前があるんですけど〟
〝知ってるよ〟
〝お前って呼ぶの、やめてくれます? なんか不快〟
〝あー。じゃあ、カサイ? カサイサン? なんか慣れねぇな、早く言えよそういう修正は〟

 ……寂しい。
 これで最後だなんて。
 でも、植村くんのことはもう諦めるしかないんだ。
 私は、この先の未来のことだけを考える。もう植村くんには迷惑をかけない。
 なのに、植村くんの言葉が頭の中を回ってしまってどうしようもない。
 悔しいくらい、やさしい思い出ばかりが顔を出してきて止められない。
 辺りには登校する生徒たちもたくさんいるのに、涙がぼろぼろと落ちていく。

〝別に、戦いたくなければ戦わなくていいから。勘違いすんな。逃げたい時は、逃げたらいいだろ〟
〝みんながお前のことを忘れて、もし呪いも解けなかったら、これから一人でどうやって幸せになるんだよ〟
〝駅で、待ってるから〟

 脳裏に焼き付いた記憶が、壊れたおもちゃのように繰り返されていく。
 懐かしい、もう手の届かない記憶が何度も巻き戻っては現れる。
 歩きながら、泣きながら、すがるように植村くんのあらゆる言葉を思い出して——。
 はっと、足を止めた。
 後ろから歩いてきた男子生徒が、急に立ち止まった私を訝しげな表情をしながら通り過ぎていく。でも私の足は動かず、何人もの生徒が私をよけて歩いていった。

 ——思い出した。
 忘れちゃいけないこと。
 植村くんが最後に伝えようとしてくれたこと。
 最後の、ヒント。
 作戦。
 その3、だ……!


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