誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「臭っさ。そのナリで来たんだ」
予鈴ギリギリでなんとか下駄箱にたどり着くと、待ち構えていたように廊下の奥で多田さんたちが私を見ていた。
先ほど私にコーラをぶちまけた、多田さん。おおといのミネラルウォーターも同じくだ。
先生が来るまで仲のいい子たちと教室でおしゃべりでもしていたらいいのに、わざわざクラスメイトを引き連れて下駄箱まで来てくれるのだから、私は本当に気に入られてるんだなと思う。
彼女たちを無視して上履きを手に取る。でも、上履きの中がびっしりと土で埋まっているのを見て手が止まってしまった。
その様子を見て、多田さんたちが笑いながら教室へと戻っていく。彼女たちが楽しみにしていたのは、コーラでぐしゃぐしゃになった私の姿ではなくこっちだった。そう思い至っても私の心はぴくりとも動かず、ただ静かに上履きを戻し、スリッパを借りるため来客用玄関へと向かった。
中一の頃から始まって、高校生になってもまだ続いているいじめ。
私は本当に、いじめられる才能があると思う。
いじめなんて百パーセントいじめる方が悪いと思うけれど、私に限っては自分自身にいじめられる能力が備わっているんじゃないかと疑ってしまう。〝私をいたぶれ〟という信号が私の遺伝子に含まれていて、周りの人たちを惑わすのだ。そのせいで彼女たちは私の顔を見ると悪い意味で関わりを持ちたくなってしまう。
だから、月曜には私をいじめた過去を忘れているはずの多田さんが、小さなことをきっかけにまた私をいじめ出す。
たとえば、彼女が先生に小言を言われてイライラしている日や、私が委員会の仕事で大きな荷物を持って廊下を歩いているのを見た瞬間、その気持ちは発芽する。それは、私がいじめの格好のターゲットであることを無意識レベルで把握していて、常に〝あわよくば〟と思っているからだ。
死にたい、と思ったこともあった。
でも、死ねなかった。
私にはお母さんがいるから。
〝ごめんね。今日も帰り遅くなるから、先寝てていいからね〟
そう言って、今朝もお母さんは私より早く家を出ていった。
私の両親は小さい頃に離婚したから、うちの家庭はシングルマザー。お母さんはいつもやさしくて、世界中の人間が敵である私の唯一味方になってくれる。
お母さんをおいて死ぬことなんてできない。
私の生活費と学費を必死になって稼いでくれているお母さんを心配させることなんてできない。
だから私は心を殺して、悔しさも悲しみも感じないロボットになった。
今は何をされても死にたいなんて思わない。これからも生き続けるし、何があっても学校に通い続ける。それが私の中の掟だ。
本鈴がなるギリギリのところで、滑り込むように教室の扉を開けた。
大きな音をたてて開けたわけでもないのに、まるで体から見えない電波でも発しているかのように、一斉にクラスのみんなが私を見つめた。
私の髪はまだ半乾きで、コーラと汗と、夏特有のクーラーのカビ臭さが混ざって教室に異臭を放つ。
私の様子を見て、彼らが瞬時に何かを悟った。
〝あぁ、とうとうやられちゃったんだ〟
〝見るからにいじめられそうなヤツだもんなぁ〟
〝ま、仕方ないって感じ?〟
そんな声が聞こえるようだった。
……本当は、みんな忘れているだけで、いじめなんて入学した当日から始まってるんだけどね。
本鈴が鳴って朝のホームルームが始まっても、先生はスリッパの私に声をかけることはなかった。
みんな、確実に私のことを見ているのに。
誰も私を見ていない。
誰も私に気づかない。
いじめを苦に自殺した若者のニュースは、世の中に多いけど。
お母さんのことが気がかりで生き続けている私は、まだ余裕があるってことなのかな……。