誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
*
夜の勿忘の池は、昼間と違って妙に重々しく木々の葉が垂れ下がって見えるのはどうしてだろう。
まるで、闇の底に落ちてしまったみたいだ。冬になって葉の多くは落ちてしまったはずなのに、やっぱり空は木に隠れてほとんど見えなくて、月明かりは神社を抜けると途端に感じなくなってしまう。
ただ、池の水はどこからか光を得ているように、いつもぼんやりと光っている。
この光はなんなんだろう。昼の間に吸収した人々の願いが、夜になってその力を放出しているのだろうか。
でも願いは光に変換されるだけで、叶えられるわけじゃない。
今更に、ここは寂しい場所だ、思えた。
「こんばんは」
しばらくすると、後ろから聞き慣れた声がした。
ゆっくりと振り返る。
そこには、今日までに何度かこの池で会った、大学生くらいの男の人が佇んでいた。
別れた彼女が戻ってくるのを、ずっと待っている男の人。
何年も願い続けているのに願いは叶わず、心を落としている男の人。
私は笑みを浮かべて、彼をこの空間へと招き入れた。
「……こんばんは。また会いましたね」
彼もいつもと変わらない、穏やかな笑顔で私の隣へ並ぶ。
手すりに触れ、池の底を眺めると、フレンドリーな視線を私に向けた。
「そうですね。たしか……何度か、すれ違ってますよね?」
「はい。いろいろお話聞かせてもらいました。それで私、元気をもらったりもしてて」
「そうだっけ。あれ……僕、なにか変なこととか言ってたかな」
「いえ。でも……」
ごくり、と唾を飲み込む。
喉がカラカラで、声が震えそうになった。
「全部、覚えてるんじゃないですか?」
彼は、何も言わなかった。
真っ暗な闇の中、池の中からぼんやりと浮き上がる青白い光が彼の表情を浮かび上がらせている。でもそこにはもう、いつも見せてくれていた微笑みのかけらもない。
痛む胸を押さえながら、私は続けた。
「あなた……なんですね。この池に住んでいる、神さまは」
彼はやはり、返事をしなかった。
——彼のことは、すべて塚本先生が教えてくれた。
〝図書室の資料にあったんだけどね。あの池は大昔、恋をしていたある男女が待ち合わせに使っていた場所だったんだって。でも二人は身分的格差があって、女性の方は地位の高い家柄の男性と結婚が決まっていて……。二人は駆け落ちしようと、ある夜に池で落ち合った。でも現れたのは彼女じゃなく、結婚が決まっていた男性の家来たちで。女性はその夜男性に囚われたまま彼の元に行くこともできず、彼は殺されてしまったの〟
それから、殺された彼はあの世に行くことはせず、勿忘の池に住み着いた。
いつか彼女が戻ってくると信じて。
絶対に行くと言ってくれた、彼女の言葉を信じて。
待ち続け、願いをかけ、何年も何百年も、彼女を待ち続けた。
その強い気持ちはいずれ池に不思議な引力を持たせるようになり、人々は吸い込まれるようにその池を訪れるようになった。
〝いつか都に移って、豪華な生活が送れますように〟
〝いつも水辺で出会うあの彼女と恋仲になれますように〟
〝商売が軌道に乗り、遠い未来まで妻と子を養えますように〟
彼は池の中からぼんやりと人々の願いを聞いていた。彼はいつしか願いをかけられるだけの存在となっていたけれど、彼に人の願いを叶える力なんてものはなく、またその願いを叶えてあげたいとも思わなかった。
だけれどある日、彼はある一人の女性の願いに心を奪われる。
〝神さま。どうかお願いです。私の頭の中から彼の記憶を取り除いてください。私を置いていったあの男のことがどうしても忘れられないのです。甲斐性のない男でした。私をないがしろにする男でした。なのに彼が他の女性に鞍替えして十数年、私は他の誰と一緒にいても、誰を愛しても、あの男を思い出してしまうのです。生きていくのが苦しいのです。どうかお願いします〟
それは、昔の恋を引きずる女性の切ない願いだった。
そんなことを願われても、自分にはどうすることもできない。
自分は神さまではなく、もはや人でもない。いつのまにか魂の形のまま生きながらえている、ただの歪な、異形の存在だ。
なのに、彼は彼女の願いを叶えてあげたいと思った。
自分と同じ、忘れられない恋。
かつては清らかだったはずの想いが、胸の底で沼となって沈み、いつのまにか醜い何かに変わりつつある恋。
彼は彼女に共感してしまった。
すべて忘れられたらいい。
幸せだった記憶も。
想い焦がれた記憶も。
全部消えて、無になってしまえばいい。
そしたらもう、何も苦しむことはないのに。
全部忘れられたら、楽なのに……。
そう思いながら、静かに彼女の言葉を聞いていた。
そして、半年ほどが経ったある日。
とある若い女性が、この地を訪れた。
〝神さま。私はいつかこの地を訪れたことのある女性の妹です。あなたさまは私の姉の願いを叶えてくれたのでしょうか。姉は愛した男のことを忘れたいといいと、願いが叶うと噂の地を聞きつけてはほうぼう彷徨っておりました。そんな中、この池から帰ってきた姉は、その日から本当に彼のことを忘れてしまったのです。何度聞いても彼のことをわからないといい、私に笑いかけるのです。姉は先月、幼馴染と結婚しました。私はあなたに感謝したいのです〟
夜の勿忘の池は、昼間と違って妙に重々しく木々の葉が垂れ下がって見えるのはどうしてだろう。
まるで、闇の底に落ちてしまったみたいだ。冬になって葉の多くは落ちてしまったはずなのに、やっぱり空は木に隠れてほとんど見えなくて、月明かりは神社を抜けると途端に感じなくなってしまう。
ただ、池の水はどこからか光を得ているように、いつもぼんやりと光っている。
この光はなんなんだろう。昼の間に吸収した人々の願いが、夜になってその力を放出しているのだろうか。
でも願いは光に変換されるだけで、叶えられるわけじゃない。
今更に、ここは寂しい場所だ、思えた。
「こんばんは」
しばらくすると、後ろから聞き慣れた声がした。
ゆっくりと振り返る。
そこには、今日までに何度かこの池で会った、大学生くらいの男の人が佇んでいた。
別れた彼女が戻ってくるのを、ずっと待っている男の人。
何年も願い続けているのに願いは叶わず、心を落としている男の人。
私は笑みを浮かべて、彼をこの空間へと招き入れた。
「……こんばんは。また会いましたね」
彼もいつもと変わらない、穏やかな笑顔で私の隣へ並ぶ。
手すりに触れ、池の底を眺めると、フレンドリーな視線を私に向けた。
「そうですね。たしか……何度か、すれ違ってますよね?」
「はい。いろいろお話聞かせてもらいました。それで私、元気をもらったりもしてて」
「そうだっけ。あれ……僕、なにか変なこととか言ってたかな」
「いえ。でも……」
ごくり、と唾を飲み込む。
喉がカラカラで、声が震えそうになった。
「全部、覚えてるんじゃないですか?」
彼は、何も言わなかった。
真っ暗な闇の中、池の中からぼんやりと浮き上がる青白い光が彼の表情を浮かび上がらせている。でもそこにはもう、いつも見せてくれていた微笑みのかけらもない。
痛む胸を押さえながら、私は続けた。
「あなた……なんですね。この池に住んでいる、神さまは」
彼はやはり、返事をしなかった。
——彼のことは、すべて塚本先生が教えてくれた。
〝図書室の資料にあったんだけどね。あの池は大昔、恋をしていたある男女が待ち合わせに使っていた場所だったんだって。でも二人は身分的格差があって、女性の方は地位の高い家柄の男性と結婚が決まっていて……。二人は駆け落ちしようと、ある夜に池で落ち合った。でも現れたのは彼女じゃなく、結婚が決まっていた男性の家来たちで。女性はその夜男性に囚われたまま彼の元に行くこともできず、彼は殺されてしまったの〟
それから、殺された彼はあの世に行くことはせず、勿忘の池に住み着いた。
いつか彼女が戻ってくると信じて。
絶対に行くと言ってくれた、彼女の言葉を信じて。
待ち続け、願いをかけ、何年も何百年も、彼女を待ち続けた。
その強い気持ちはいずれ池に不思議な引力を持たせるようになり、人々は吸い込まれるようにその池を訪れるようになった。
〝いつか都に移って、豪華な生活が送れますように〟
〝いつも水辺で出会うあの彼女と恋仲になれますように〟
〝商売が軌道に乗り、遠い未来まで妻と子を養えますように〟
彼は池の中からぼんやりと人々の願いを聞いていた。彼はいつしか願いをかけられるだけの存在となっていたけれど、彼に人の願いを叶える力なんてものはなく、またその願いを叶えてあげたいとも思わなかった。
だけれどある日、彼はある一人の女性の願いに心を奪われる。
〝神さま。どうかお願いです。私の頭の中から彼の記憶を取り除いてください。私を置いていったあの男のことがどうしても忘れられないのです。甲斐性のない男でした。私をないがしろにする男でした。なのに彼が他の女性に鞍替えして十数年、私は他の誰と一緒にいても、誰を愛しても、あの男を思い出してしまうのです。生きていくのが苦しいのです。どうかお願いします〟
それは、昔の恋を引きずる女性の切ない願いだった。
そんなことを願われても、自分にはどうすることもできない。
自分は神さまではなく、もはや人でもない。いつのまにか魂の形のまま生きながらえている、ただの歪な、異形の存在だ。
なのに、彼は彼女の願いを叶えてあげたいと思った。
自分と同じ、忘れられない恋。
かつては清らかだったはずの想いが、胸の底で沼となって沈み、いつのまにか醜い何かに変わりつつある恋。
彼は彼女に共感してしまった。
すべて忘れられたらいい。
幸せだった記憶も。
想い焦がれた記憶も。
全部消えて、無になってしまえばいい。
そしたらもう、何も苦しむことはないのに。
全部忘れられたら、楽なのに……。
そう思いながら、静かに彼女の言葉を聞いていた。
そして、半年ほどが経ったある日。
とある若い女性が、この地を訪れた。
〝神さま。私はいつかこの地を訪れたことのある女性の妹です。あなたさまは私の姉の願いを叶えてくれたのでしょうか。姉は愛した男のことを忘れたいといいと、願いが叶うと噂の地を聞きつけてはほうぼう彷徨っておりました。そんな中、この池から帰ってきた姉は、その日から本当に彼のことを忘れてしまったのです。何度聞いても彼のことをわからないといい、私に笑いかけるのです。姉は先月、幼馴染と結婚しました。私はあなたに感謝したいのです〟