誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
衝撃だった。
彼は彼女の止まらない涙を、水の底からじっと見つめた。
これは自分の力なのか?
願い続けるあまり、自分は人の願いを叶える力を持ってしまったのだろうか?
私が本当に、彼女の記憶を消したのだろうか……?
そして噂は噂を呼び、人々は自分の悲しい記憶を消すためにこの地を訪れるようになった。
訪れた人々はみな、池を訪れた後どこか呆けた顔をして帰っていくので、それを知った地元の有力者がここに住む悪しき魂を慰めるために池の手前に神社を建て……。
「……知らない方が、幸せだったのに」
彼がぽつりと呟いた。
横を見ると、彼はどこか清々しそうな目をして天を見上げていた。
その視線は、この池の周りに植わっている木々をすり抜け、遠い空の向こうを覗いている。
決して届かない、彼自身の願いを本物の神さまに願っているみたいに。
「私の願いを叶えたのは……あなたなんですか?」
彼が小さく頷いた。
「僕はずっと神さまに見張られていて、人の願いを叶えることはできなくなってしまったんだけどね。まさかこの僕が、神さまより長生きするとは思わなかったな」
「私の願いを叶えてくれたのは……あなたも、私と同じ気持ちだったから?」
そう言うと、彼は感情のない目で私を見つめた。
不意に恐ろしくなって、手すりを掴む手に汗が滲む。
でも彼はまたゆっくり笑顔を取り戻すと、美しく揺蕩う池の水面を覗き込んだ。
「人間って、勝手だね」
彼の唇から、今までになかった非難の言葉が生み出された。
「僕の悲恋が、長い時を経て都合よく解釈されて。今や、願いごとが叶う池だってさ。本当は願いを叶えてほしかったのは僕の方だったのに。……できるなら、僕も忘れたかった。彼女のことも、彼女を奪った男のことも、何もかも忘れて楽になりたかった。そして僕もみんなに忘れられて、この池の噂も風化して、無になってしまいたかった。なのに」
静かだった池の水面に、雫が一滴落ちる。
ふと、この高台にある池の水がいつまでも枯れ果てないのは、彼の涙のせいなんじゃないかと思った。
何十年も、何百年も、想い焦がれて。
それでも、願いが通じることはなくて……。
胸が苦しい。
いつのまにか、私は自分の呪いのことを忘れて、彼のことを考えていた。
彼はたった一人、この地でみんなの願いを見つめ続けてきたんだ。
自分は永遠に報われないのに。身動きもできず、祈りながら、彼らの願いをただ聞いていた。
そしてあの日、忘れられたい、という私の気持ちに共感して、私の願いを叶えてしまった。
私を救うために、もういない神さまの意志に背いて……。
思わずポケットからハンカチを取り出すと、彼の頬に当てた。
彼は、ふふ、と小さく笑い、ハンカチを受け取った。
「……君は、自分をどん底に突き落とした僕を慰めるの?」
「泣いてる時にハンカチを差し出されると、うれしいんだって知ったから……」
答えると、彼の顔が切なそうに歪んだ。
恥ずかしそうにまた水面の方を向くと、しばらくハンカチを握ったまま、目を潤ませていた。
どんなに苦しかっただろう。
どんなに切なかっただろう。
彼女とともに生きていた頃は、きっと幸せだった。でももう彼女はいない。彼を求めてこの池にやってくる人は多くいたかもしれないけれど、誰も彼自身を見ている人はいなかった。
——彼にとって、この場所はきっと、よくない場所だ。
彼は少し落ち着くと、赤い目をしながらハンカチを見つめた。
「……本当は、願いを叶えた時からずっと君のことを見てたよ。最近はバカみたいにクラスメイトの女の子と喧嘩ばかりしていたね。……君は変わった人だ」
彼は不意にハンカチを持っていない左の手のひらを空へと向けた。
それと同時に、池の中から小さな光がふたつ、浮き上がってきた。
小さなゴルフボールくらいの、淡い光たち。それは彼の手のひらの上まで来ると、操られているようにその場をふわふわと漂った。
美しい、だけれどどこか切ない、青白い光。
「……かつて僕が願いを叶えた人たちは、もうほとんどが寿命を迎えて亡くなってしまったみたいだね。でも今生きている人は、二人いる。そのうちの一人は君だ」
彼は光を自分の手のひらへと乗せると、強い力で握りしめた。
ふたつの光はその力から抗うように、彼の指の中で体を震わせている。
「願いを……消して、くれるんですか?」
彼の中でまだ生き続けようとする光が、苦しそうに蠢いている。
彼は少しだけ顔を歪ませると、さらに手のひらに力を込めた。
「本当は、この願いは君が学校を卒業した後に消そうと思っていたんだ。君がこんな体になることを本当は望んでいないって、わかっていたから。だから、君の悲しみがなくなる日まではと思っていたんだけど……僕のお節介が、余計に君を苦しめてしまったのかもしれないね」
ごめん、という言葉とともに、ふたつの光が彼の指からいくつもの光線を放ったかと思うと、輝きをなくした。
ちりぢりになった光の粒が弾けて、線香花火の最後の瞬きのように力尽きていく。
私は呆然と、徐々に暗くなっていく世界を見つめていた。
「この光は、君と……君の、友達の願いだよ」
突然言われて、一瞬言葉を失った。
彼の手のひらの中にあった、ふたつの願い。
その片方は……まさか。
彼は彼女の止まらない涙を、水の底からじっと見つめた。
これは自分の力なのか?
願い続けるあまり、自分は人の願いを叶える力を持ってしまったのだろうか?
私が本当に、彼女の記憶を消したのだろうか……?
そして噂は噂を呼び、人々は自分の悲しい記憶を消すためにこの地を訪れるようになった。
訪れた人々はみな、池を訪れた後どこか呆けた顔をして帰っていくので、それを知った地元の有力者がここに住む悪しき魂を慰めるために池の手前に神社を建て……。
「……知らない方が、幸せだったのに」
彼がぽつりと呟いた。
横を見ると、彼はどこか清々しそうな目をして天を見上げていた。
その視線は、この池の周りに植わっている木々をすり抜け、遠い空の向こうを覗いている。
決して届かない、彼自身の願いを本物の神さまに願っているみたいに。
「私の願いを叶えたのは……あなたなんですか?」
彼が小さく頷いた。
「僕はずっと神さまに見張られていて、人の願いを叶えることはできなくなってしまったんだけどね。まさかこの僕が、神さまより長生きするとは思わなかったな」
「私の願いを叶えてくれたのは……あなたも、私と同じ気持ちだったから?」
そう言うと、彼は感情のない目で私を見つめた。
不意に恐ろしくなって、手すりを掴む手に汗が滲む。
でも彼はまたゆっくり笑顔を取り戻すと、美しく揺蕩う池の水面を覗き込んだ。
「人間って、勝手だね」
彼の唇から、今までになかった非難の言葉が生み出された。
「僕の悲恋が、長い時を経て都合よく解釈されて。今や、願いごとが叶う池だってさ。本当は願いを叶えてほしかったのは僕の方だったのに。……できるなら、僕も忘れたかった。彼女のことも、彼女を奪った男のことも、何もかも忘れて楽になりたかった。そして僕もみんなに忘れられて、この池の噂も風化して、無になってしまいたかった。なのに」
静かだった池の水面に、雫が一滴落ちる。
ふと、この高台にある池の水がいつまでも枯れ果てないのは、彼の涙のせいなんじゃないかと思った。
何十年も、何百年も、想い焦がれて。
それでも、願いが通じることはなくて……。
胸が苦しい。
いつのまにか、私は自分の呪いのことを忘れて、彼のことを考えていた。
彼はたった一人、この地でみんなの願いを見つめ続けてきたんだ。
自分は永遠に報われないのに。身動きもできず、祈りながら、彼らの願いをただ聞いていた。
そしてあの日、忘れられたい、という私の気持ちに共感して、私の願いを叶えてしまった。
私を救うために、もういない神さまの意志に背いて……。
思わずポケットからハンカチを取り出すと、彼の頬に当てた。
彼は、ふふ、と小さく笑い、ハンカチを受け取った。
「……君は、自分をどん底に突き落とした僕を慰めるの?」
「泣いてる時にハンカチを差し出されると、うれしいんだって知ったから……」
答えると、彼の顔が切なそうに歪んだ。
恥ずかしそうにまた水面の方を向くと、しばらくハンカチを握ったまま、目を潤ませていた。
どんなに苦しかっただろう。
どんなに切なかっただろう。
彼女とともに生きていた頃は、きっと幸せだった。でももう彼女はいない。彼を求めてこの池にやってくる人は多くいたかもしれないけれど、誰も彼自身を見ている人はいなかった。
——彼にとって、この場所はきっと、よくない場所だ。
彼は少し落ち着くと、赤い目をしながらハンカチを見つめた。
「……本当は、願いを叶えた時からずっと君のことを見てたよ。最近はバカみたいにクラスメイトの女の子と喧嘩ばかりしていたね。……君は変わった人だ」
彼は不意にハンカチを持っていない左の手のひらを空へと向けた。
それと同時に、池の中から小さな光がふたつ、浮き上がってきた。
小さなゴルフボールくらいの、淡い光たち。それは彼の手のひらの上まで来ると、操られているようにその場をふわふわと漂った。
美しい、だけれどどこか切ない、青白い光。
「……かつて僕が願いを叶えた人たちは、もうほとんどが寿命を迎えて亡くなってしまったみたいだね。でも今生きている人は、二人いる。そのうちの一人は君だ」
彼は光を自分の手のひらへと乗せると、強い力で握りしめた。
ふたつの光はその力から抗うように、彼の指の中で体を震わせている。
「願いを……消して、くれるんですか?」
彼の中でまだ生き続けようとする光が、苦しそうに蠢いている。
彼は少しだけ顔を歪ませると、さらに手のひらに力を込めた。
「本当は、この願いは君が学校を卒業した後に消そうと思っていたんだ。君がこんな体になることを本当は望んでいないって、わかっていたから。だから、君の悲しみがなくなる日まではと思っていたんだけど……僕のお節介が、余計に君を苦しめてしまったのかもしれないね」
ごめん、という言葉とともに、ふたつの光が彼の指からいくつもの光線を放ったかと思うと、輝きをなくした。
ちりぢりになった光の粒が弾けて、線香花火の最後の瞬きのように力尽きていく。
私は呆然と、徐々に暗くなっていく世界を見つめていた。
「この光は、君と……君の、友達の願いだよ」
突然言われて、一瞬言葉を失った。
彼の手のひらの中にあった、ふたつの願い。
その片方は……まさか。