誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「植村くんも、あなたに願いを……?」
「彼も苦しんでいたんだ」

 彼はそのまま口を閉ざした。植村くんの願いの内容が気になったけれど、聞いても答えてくれない気がして追求することはしなかった。
 池に暗闇が戻る。
 辺りは本当に真っ暗で、弱々しい月明かりだけが心もとなく辺りを照らしている。
 私は実感もなく、闇に埋もれそうになっている池を見つめた。
 明日から……。
 私の記憶は、消えなくなるんだ。
 誰にも忘れられない、私に戻るんだ。
 その事実に、急に恐怖が呼び覚まされる。
 中学の頃から忘れられることが当たり前になっていた。
 いじめの記憶もすぐに消えるのだと、どこかで安心していた。
 ……でも。
 これでいいと、決めたから。
 後悔は、ない。
 戻りたいとも思わない。
 ただ、まだ記憶が戻ったという実感はなくて、自分の中にどこか変わったところはあるのだろうかと両手を眺めてみる。
 すると彼が、これからゆっくり理解してくるよ、と教えてくれた。

「あなたは……どうするんですか?」

 自分のこともさることながら、思わず聞いてしまった。
 彼の表情がふっと暗くなる。

「……もう、動けないんだよ」

 彼がまた池へと目を向けた。
 今はもう暗くて、先ほどまでそこにあったはずの水面の淵がそこに存在しているのかどうかもわからない。

「わかってるんだ。彼女はもういない。彼女も、彼女と結婚した男も、もう寿命でとっくにこの世にいない。なのに……動けないんだ。本当は次の人生に進めばいいのだろうけど、動けない。気力がない。生まれ変われば記憶はなくなって、まっさらになれるんだろう。僕もそれを望んでる。でも、またどこかで生まれ変わって、またつらい思いをするかもしれないと思うと……何も、考えたくなくて」

 闇の中でかすかに見える、彼の瞳。
 その暗い目が、少し前の自分と重なった気がした。
 何も信じられなくて。幸せな未来なんて想像もできなくて。
 ただ、我慢することしかできなかった。
 悲しみを、なかったことにすることしかできなかった。
 でも……。
 どんなに現実から目を背けても悲しみは消えることはなくて、結局は自分の中に積もっていくということを、私は知っている。

「……よければ、聞いてください」

 彼はハンカチを握ったまま、手すりに手を置いている。
 その横に並ぶように、手を置いた。

「友達が、言ってくれたんです。逃げてもいい。でも幸せになることからは逃げちゃだめなんだって……。……私は、あなたがここにいたら、ずっとずっと、幸せになれないんじゃないかと思います」

 そっと私を見つめる彼は、口を結んだまま何も答えなかった。

「あなたの恋人は、あなたと駆け落ちをしようとした日、最後まであなたの元に行こうとしていたそうです。見逃してほしいと、ずっと懇願していたそうです。でも婚約者は許さず、願いはかないませんでしたが……」

 彼の瞳の奥の光が、揺れた。
 なぜか涙が出そうになって、私は彼の指先に視線を移した。

「次の人生でも、嫌なことがたくさんあるかもしれません……。私も今日まで何度も死にたいと思いましたし、今後だって、何度も逃げると思います。でも、どんなに苦しくても、地の果てまで逃げたとしても、私は幸せを追い続けたいです。だから、あなたも……できたら、幸せを探してほしいんです」

 何百年も苦しんだ人に、こんな言葉なんて届かないかもしれない。
 苦しみは、当事者にしかわからない。
 進む道を押し付けることなんてできないし、人は自分で納得した道しか進めない。そういうものだ。
 だけど……。
 あなたはあの日、私を救ってくれた。
 私の知らないところで、私を見ていてくれた。
 一人ぼっちの私を、ずっと支えてくれたから。
 どんな形でも、あなたのもとにまた幸せな光が降り注ぐことを、願っている。

「……ありがとう」

 彼はやさしく微笑むと、お礼を述べた。
 そして手すりから手を離し、しばらくハンカチを見つめ、顔を上げた。

「これ、もらってもいいかな。これがあったら泣きたくなった時、我慢しないで思い切り泣けるのかな、なんて思って」

 子どもみたいなことを言う彼に、つい笑ってしまった。
 今見ているあどけない笑顔が、本当の彼の表情なんだろうなと思えた。

「……はい。私も泣くのは下手な方ですが……泣きたい時は、思い切り泣いたらいいと思います。それで、いつか泣き終える日が来たら……きっと新しい道が見えてくるって、信じてます」


< 62 / 70 >

この作品をシェア

pagetop