誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
最終話
カーテンをそっと開けると、グラウンドでマラソンをしている上級生たちの姿が見えた。
走る生徒と、グラウンドの真ん中で声援を送る生徒にわかれている。一秒一秒規則正しくタイムをカウントする先生の声が、窓をすり抜けて室内に響いていた。
もう、そんな時期なんだ。
マラソンの季節。
中学の頃も冬頃に長距離を走らされたけれど、運動が苦手な私は一番憂鬱な授業だった。
タイムはいつも、果てしなく遅いし。いつも周回遅れなものだから、一周早く走ってくる多田さんに毎回足を引っかけられては転ばされるし。
つらい記憶しか思い出せない。でもこうして遠くから見ていると、応援する生徒や走りながらも笑顔で応える生徒は楽しそうで、同じことをしていても全然違う世界があるのだなと胸が切なくなる。
青春。
今まで生きていて、私はその感覚を味わったことはあっただろうか。
いつもいじめられて、そのたびにじっと耐えていた日々。
何も感じないふりをして、目をつむっていた記憶しかない。
目の前に繰り広げられている、美しく眩い世界。なんとなく、その景色から目を背けたくなる。
でも心のどこかに残っているらしい希望が、いつかこういう世界で私も誰かと笑い合ってみたいと叫んでいて、カーテンで遮断することを拒んでいた。
シャーペンを動かす手が止まって、三十分は経っただろうか。
いろいろ悩んだ末、私は先日から保健室登校を始めた。
なんだか、電池が切れてしまったのだ。体が動かなくなってしまった。それは自分でもびっくりするくらいの変化で、朝起きて、学校に来ただけですべてのエネルギーを費やしてしまったようだった。
這いずるようにして教室のドアを開けると、記憶を取り戻したみんなの視線が突き刺さってきた。
射抜く勢いで見てくる割に、何かをしてくるわけではないのだけれど。彼ら一人ひとりの目を見た瞬間、悲しみとも恐怖とも違う、体の上に何トンもの岩を乗せられたような疲れが体を襲って動けなくなってしまった。
そして植村くんの言う通り、私は逃げることに決めた。
ずっと、疲れてたんだ。
私はここから逃げ出したかったんだ。
そう、ようやく自覚した。
職員室に行き、担任の先生に教室に入れないことを告げると、先生もしぶしぶそれを受け入れた。先生も多田さんとの度重なる喧嘩を思い出していて、すべてを把握したように頷いた。
あの池に住んでいた彼に、多田さんたちと向かい合う自分を見てもらおうとしていたくせに。
私はやっぱり、弱い。限界だった。
自分の限界値を自分で知るということは、そう簡単なことではないのかもしれない。
「転校……するの?」
トイレに行こうと廊下を出たところで、ぼそりと声が聞こえた。
振り返ると、佐倉さんが廊下の隅に立ち、じっと私を見つめていた。
いつもと同じ、儚いシルエット。いや、前よりも痩せたような、さらに力がなくなったような体つきに見える。
一年生の教室は四階なのに。
みんなが授業を受けている真っただ中、一階の端の保健室の前にいるなんて。
私に会いに来てくれたんだ。
具合が悪いなんて言って、うそでもついて出てきたのだろうか。
「……うん。通信制の高校なんだけどね、毎月募集があって、親と相談してここならいいかもしれないねって……。自分のペースで生活できるし、あまり人には会わないし、今の私には合ってそうだったから」
佐倉さんが小さく頷く。
ほんの少し肯定されただけで泣きそうになるのだから、今の私はだいぶ弱っている。
そのせいか、もう一言、自分の思いを口にしてしまった。
「なんていうか……ちょっと、再出発したいなって、思ったんだ」
そう。
再出発。
今は少し、休むだけ。
立ち止まって、疲れ果てた自分を労わるだけ。
元気になったら、はじめてのアルバイトに挑戦してみたい。
大学受験に向けて、勉強もがんばりたいと思ってる。
別に何かを諦めたわけじゃない。投げ出したわけじゃない。
私はこの場所から逃げ出す……けれど。
幸せを、諦めたわけじゃない。
休んで、一度全部を捨てて、また前に進むために。
今はこの世界から逃げよう。
そう思ったんだ。
「ごめん……私、何もできなくて」
佐倉さんが俯き、呟いた。
謝られて、少し驚いた。
佐倉さんが私に対して、何かしようとしてくれてたのはなんとなくわかってたけど、それを明言されたことはなかったから。
申し訳なさそうに眉尻を下げている佐倉さんに、大きく首を振ってみせた。
「……私、佐倉さんがいてくれたから今日まで学校に来れてたと思う。佐倉さんが私を気にかけてくれたから。私はいつも一人で、一人ぼっちで……でも、どこかで誰かがちゃんと見ていてくれてるんだって佐倉さんが信じさせてくれたから、ここまで来れたんだ。だから、何もできないなんて言わないで」
長い間、佐倉さんのことを信じられなかった。
佐倉さんや他の誰かが私を助けようとする時、それは同情か、蔑みか、マイナスな感情ばかりが私の心を支配していた。
でも……。
どんな感情であっても、佐倉さんが私を見てくれていたのはたしかだった。
それが同情でもいい。
憐れみでもいい。
今はそう、素直に思えた。私を見ていてくれる、数少ない人。
それはたしかに、私の励みになっていたのだから。
佐倉さんがふとポケットに手を入れ、何かを取り出した。
スマホだ。
黒いカバーに包まれた、小さなスマホ。
なんとなく彼女らしい、シンプルなスマホだと思った。