円満夫婦ではなかったので
「園香は僕の仕事のことより、自分の治療に専念しよう。記憶の問題だけじゃなくて、全身打撲で酷い状態だそうだよ」
「……そうだね」
今だって、身体中が軋んで痛い。
「私はオフィスビルの階段から落ちたそうだけど、なんでそんな所に居たのか知ってる?」
専業主婦だと言うなら、仕事で訪問ということはないだろうし。
「さあ? でもあのオフィスビルの2階にはカフェが入っているから、休憩でもしてたんじゃないかな?」
「そうなのかな?」
どうも違和感がある。カフェなんてどこにでもあるのに、わざわざオフィスビルの中の店を選ぶだろうか。
他の用事が有ってその帰りと言うのなら納得出来るけど。
「そうだよ。怪しい場所に居たわけじゃないし、あまり考え過ぎない方がいいって」
瑞記が腕を上げて、時計ちらりと見た。園香の視界にも入ったそれは、一目で高価と分る有名ブランドものだった。
確か百万円以上はする腕時計だ。
(会社経営はかなり順調みたいだわ)
それにしても、ブラックの文字盤のスポーティーな時計は、瑞記のイメージと合わない気がする。
(彼はもっとエレガントな雰囲気のものが似合いそうだけど)
まあ本人の雰囲気と好みが一致ないなんてことはよくあることだ。
細かいことをいちいち気にするのはやめよう。
「ごめん、そろそろ行かないといけないんだ」
瑞記がそう言って椅子から立ち上がった。
「あ、この時間は仕事中だものね。お見舞いに来てくれてありがとう」
頭を下げてお礼すると、瑞記が満足そうに目を細めた。
「いいんだよ。妻の見舞い来るは当然なんだから」
「ええと……そうよね、心配かけてごめんなさい」
「大丈夫。それじゃあ行くよ」
時間が押しているのか、瑞記の動きが慌ただしくなり、足早にドアに向かう。
しかしそこで何かを思い出したように、ピタリと立ち止まり振り返った。
「そうだ。申し訳ないけど、明日と明後日はここに来れないんだ。外せない出張が入っていて」
「え……あ、分かったわ」
正直言って驚いた。かなりの怪我をして記憶喪失の妻がいる状況でも予定が変更できない程の仕事ってなんだろう。
(いえ、そんな風に思ったら駄目だわ)
園香は企業勤めしか経験したことがないから、疑問に感じるのだ。
少人数の会社の経営者ともなれば、誰かに代わることが出来ない仕事というものがあるのだろう。
夫だってきっと心苦しい思いをしている。その証拠に、今の彼は眉間にシワを寄せていて、なんとなく憂鬱そうに見える。
(さっきだって、妻のお見舞いに来るのは当然だって言ってたじゃない。でも……)
病室を出て行く瑞記の様子に、何とも言えない違和感のようなものを感じるのだった。