雨宮課長に甘えたい【2022.12.3番外編完結】
雨宮課長はマンションの地下駐車場に車を停めた。エレベーターで七階まであがって、角の部屋が雨宮課長と私の住んでいる部屋らしかった。

ピンク色のモコモコのスリッパが奈々ちゃんのだと言われて、出してもらったけど、覚えていない。

長い廊下も、広いリビングダイニングも初めて来た場所みたい。
リビングの座り心地のいいソファに座って、キョロキョロと室内を見回すけど、何一つ心に響いてこない。

家に帰ったら少しは思い出せるかと期待したのに……。

まるで初めて来た家。
ここで暮らしていたなんて信じられない。

ウエストシネマズに就職してから住んだ錦糸町のマンションに帰りたい。
それが無理なら実家に帰りたい。ここで雨宮課長と暮らすなんて無理。

でも、そんな事言えない……。
明日からお母さんはオーストラリアだし。

だったら実家の鍵だけもらって一人で住むのは?

「ねえ、お母さん」と言った時、雨宮課長が私たちの前に淹れたてのコーヒーを持って来てくれた。

「いい香り。いただきます」

お母さんが白いコーヒーカップを持って、美味しそうに飲んだ。

「奈々ちゃんが淹れてくれたコーヒーには敵いませんが」

向かい側に座った雨宮課長が照れたように口の端を上げる。
いつの間にかコートは脱いでいて、黒のセーター姿になっていた。

私は慣れない場所でどうしたらいいかわらかず白いダウンを着たまま。お母さんはくつろいだ様子でコートを脱いでいるのに。

「そんな事ないでしょ。拓海さんの方が家事が上手だって聞いていますよ」

お母さんがそうよねと、言うように私を見る。

雨宮課長が家事が上手な事も知らない。
また私だけ仲間外れ……。

30年の人生の中のたった一年分の記憶を失くしただけなのに、なんでこんなに居心地が悪いんだろう。

「奈々ちゃん、休む?」

泣きたいのを我慢して、白いコーヒーカップを見つめていたら、雨宮課長に訊かれた。
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