雨宮課長に甘えたい【2022.12.3番外編完結】
「まだ日本にいたのか」

雨宮課長が普段よりも低い、疲れたような声で言った。

「パリ、飽きちゃった」

うふっと笑った佐伯リカコは可愛らしく、綺麗で、魅力的。さすが元人気女優。だけど、彼女の顔を見た瞬間、どくどくと鼓動が速くなり、嫌な気持ちになっていく。できる事なら、この場から逃げ出したい。――そう思っている自分にびっくり。

確かに、彼女の事は雨宮課長と避けたい話題ではあったけど、嫌いな女優じゃなかった。なのに逃げ出したいと思う程の強い気持ちになるのは一体どういう事? それに不吉な物を見たような気持ちになるのはなんで?

「中島さん、お元気だった?」

美しい顔がこっちを見て、親し気に微笑んだ。

まさか名前を呼ばれるとは思わなかった。
記憶喪失前の私は彼女と会っているんだ。

「ええ。はい」

強張りそうな頬にぐっと力を入れて笑顔を作る。
なぜか彼女には弱みを見せちゃいけない気がする。だから、記憶喪失だって事は知られたくない。

「中島さん、拓海に泣かされてない?」

『拓海』だなんて、ちょっと気安くない?
いくら元夫婦だからって……。

そう言えば課長も今、『リカコ』って呼んでた。
なんか面白くない。

「えーと、あの、私の方が雨……拓海さんを泣かせているかも」
彼女に負けたくなくて、思わず下の名前で呼んだけど、初めて口にした感じがしない。

拓海さんって呼び方、しっくりくる。

「拓海さん」
確かめるようにもう一度、口にした時、「奈々ちゃん」とすぐ隣で湿り気のある声で呼ばれた。

見上げると、こっちを向いている雨宮課長の顔があって、眼鏡の奥の黒い瞳がじわっと潤んでいる。

え?

雨宮課長……涙ぐんでるの?

「ど、どうしたんですか?」
「ごめん。何でもないんだ」
慌てたように眼鏡を外して、人差し指で目元を拭う雨宮課長がなんか愛しい。
私よりも年上で、大人で、私の心配ばかりしている雨宮課長のまた意外な一面を見て、胸がキュンキュンする。
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