結婚契約書に延長の条文はありませんが~御曹司は契約妻を引き留めたい~
プロローグ
「出張? 九州へ?」

香津美は受話器を握りしめながら、少し動揺した声で聞き返した。

『はい』

電話の向こうの女性は冷たく事務的に応対する。
秘書と言えばもっと愛想よく応対するものだと思っていたが、いつも彼女は香津美に対してその口調を変えない。

「でも、今朝は何も・・」
『申し訳ございません。予定は来週だったのですが、先方の都合で予定が変更になりましたので、急いで出発されました』

少しも申し訳ないと思っているようには聞こえない。

「いつ・・」
『三時間前に・・一時間前の飛行機に搭乗されたはずです』
「そう」
『奥様には専務からご連絡されていると思っていました』

その言葉の裏に「そんな連絡もないのか」という気持ちが潜んでいる。
いつものことだ。夫の予定を妻の自分より把握しているであろう、秘書の大原麻紀子の差すような言葉が突き刺さる。
ちらりとダイニングテーブルの上に並べたディナーの皿を見る。
今夜は早く帰ってきてほしいと言った言葉も、彼には右から左だった。それもいつものことだ。

『奥様?』

黙ったままの香津美に、電話の向こうから秘書が問いかける。

「その、帰りは?」
『明日の予定です。奥様にお電話していただけるように、私の方からもご連絡しておきます』
「・・お願いします」

秘書に促されて、ようやく彼は電話をしてくる。「妻」という言葉が、どういう意味なのかわからなくなる。

『それでは失礼いたします』

一瞬の間もなく、ガチャリと電話が切れた。

「通話終了」という言葉が携帯の画面に表示される。

「ふう・・」

携帯の画面を下にしてテーブルに置くと、香津美はもう一度ダイニングテーブルの上に今夜のためにセッティングしたお皿やカトラリー、花などを眺めた。
冷蔵庫にはトマトとモッツァレラのカルパッチョが入っている。電器圧力鍋で作ったビーフシチューは鍋に移し、もう一度暖めればいい。バゲットも近所で評判のパン屋で注文していたのを買ってきた。デザートは普段彼は食べないが、バニラアイスなら食べるのを知っている。

「明日・・か」

暫くその場で呆然とした後、一人分の食器を片付けてから一人でお皿に盛って食べた。
圧力鍋で火を通し、ソースをいちから作ったビーフシチューは我ながら絶品だった。
残りはタッパウェアに入れて冷蔵庫に入れる。また明日の夕食もこれになるのだ。
今日が何の日か彼は覚えていないのだろうか。「今夜は早く帰ってきて」と言った時、少し反応があったように思ったのは気のせいだったのか。
キッチンカウンターの上に置いた時計には日付や気温、湿度などが表示されている。
今日は九月十八日、九月二十日まで後二日。
三年前、香津美が夫である篝 和海(かがり かずみ)と契約を交わした日は明後日だ。
いつまで続くかわからない。だが、確実に終了することが決まっているこの結婚の契約を交わした日。
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