結婚契約書に延長の条文はありませんが~御曹司は契約妻を引き留めたい~
正式な引退は少し先になるが、光太郎は和海を代理としてリモートワークで仕事を始めた。
取締役社長の休業宣言に一時Kagariホールディングスの株価は下がったが、社長代理に就任した和海が表に立つと、若くてイケメンの次期社長候補に世間は注目した。
そして思った通り、和海は取締役社長と専務取締役両方の仕事をこなさなければならず、多忙な日々が続いた。
約束していた旅行はもちろん取りやめ、休日もほぼ仕事で出歩くか書斎に閉じこもる事が多く、寝室も別で過ごし、同じ家にいながら挨拶をするのがやっとの毎日だった。
いくら体が丈夫でも、ロボットで無い限り疲労は蓄積する。
和海の体が心配だったが、香津美にはどうすることもできなかった。
ただ、香津美が用意していた食事には何とか手をつけているようで、それだけは安心した。
香津美は自分の仕事と家、病院を行ったり来たりして過ごし、そして契約から三年目の日が目前に迫っていた。

そして後二日で約束の日が来ると言う日、香津美は彼に話があるから早く帰ってきてほしいと、珍しく頼んだ。
でもそれも、急な九州への出張で取り消しになった。

食べた食器を片付けてから、大して面白くも無いドラマを観ながら眠くなるまでリビングで過ごした。
リビングの壁に飾られた写真に目を向ける。幸せに満ち足りた顔とはとても言えない、静かな笑みを湛えたウェディングドレス姿の自分がこちらを見ている。
隣の和海は取り澄ました顔をしていて、何を考えているのかわからない。
和海を見る度に、声を聞く度に、息づかいを感じる度に切なさが込み上げる。彼がいないと心のどこかに隙間風が吹いているのがわかる。
携帯が鳴ったので画面を見ると、和海が「ごめん、急な出張で帰れなくなった」というメールを送ってきた。
時間はもう深夜に近い。
今も仕事をしているのだろうか。

「大原さんから聞きました。仕事なら仕方が無いです。体壊さないでください。明日またおじい様達の所へ行ってきますね」

事務的な文面だったが、そうとしか香津美には言えなかった。

美幸は今週退院する。投薬治療が体にあったのか、今は容態も落ち着いている。
篝家では急ピッチで工事がされて、リビングの一角に美幸のベッドを置いて、そこでも過ごせるようにした。
メールを送ってから、香津美はひとつのアプリを立ち上げた。
それは機種変更してもずっと引き継いできた二十歳になってから使っているアプリで、生理の開始日や終了日を記録すると、排卵日の予想を立て、妊娠し安い日や安全日などをカレンダーに表示してくれる。そして次の生理がいつくるかも教えてくれる。
これまで多少の誤差はあっても、ほぼアプリが示した日に生理が始まっていた。
しかし、今月はとっくに来ているはずの生理がまだ来ていなかった。予定では十日前に始まっているはずだ。
加えて、和海が香津美を避妊具なしに抱いた日は、ちょうど危険日の終了頃だった。
まさかと思って、一昨日薬局で妊娠検査薬を買った。
ネットで調べると生理予定日の一週間後から使用できるとあった。今日は十日後だから、もしかしたら反応がある筈。

結果は「陽性」だった。

そして昨日、近所の産婦人科を受診し、妊娠が確実になった。
予定は来年の五月半ば。順調にいけばちょうど年度末には産休に入る。

今夜はそれを和海に伝えるつもりだったが、彼は帰ってこない。

昼間はまだ暑いが、夜は冷房が無くても過ごせるようになってきた。
ベッドに横になるとすぐに睡魔が襲ってきた。
妊娠中は眠くなりやすいと可奈子は言っていたが、それなんだろうか。
まだ一ヶ月しか経っていないのに、と思いながら香津美は眠りについた。
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