甘い災厄

その実害の具体的なところは、まつりにはわからないが、最初に夏々都を見ていて感じたことは、無力感だった。
彼は、愛されようが愛されまいが、別に、どちらも同じなのだと、学んで生きてきた。
好きだと言われれば、「ありがとう」(お世辞だろうけど)と受けとるし、嫌いだと言われても「納得」する。
愛しているつもりのものが、実際にどんな悪魔だったところで、その事実は彼のような人格には響かない。

まつりのように、愛されて、ぬるま湯のなかで生きてきたような立場を経験した者からだとピンと来にくかったが、事実を認識させるのは、なかなか恐ろしい作業だというのは、どこかで語られたと思う。

「あの人は暴力であなたをいじめてるのよ!」
とか言うのは、彼らには
「あの人はあなたを愛してないわ。でもあの人は家族なのよね、ああ、あなたは可哀想な子! 暴力なんて普通なら受けないのにね!」
という、普通ならあり得ないよ、を強調した強いインパクトで伝わるのだ。
その上で、「可哀想」を重ねられても、軽度というか、洗脳が幸い浅かった人間になら立ち直る効果があるかもしれないが、重度なものに近付くと、そうはいかない。

愛してもらえないのは、自分のそれが足りないからじゃないのかとか、この人だって苦しんでいるのだとか、暴力を通して、その《向こう》側を見てしまうようになっている彼らには、事実なんてものを認識すると、これまで耐えてきたすべてが否定されたり可哀想な歴史なのだと、改めて思わねばならない。

その負荷が1日で言われた言葉により、一気にのし掛かるとなると、かなりのストレスだ。


まつりは、その点にはなにも言わなかった。
気付いていたが、本人が気付いてほしく無さそうだったので、ただ、いつも手当てをしただけ。

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