バレンタイン
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
一瞬、ふたりの視線が重なった。
先にその視線を外したのは、私だった。
意志のある凛とした眼差しは、平凡な一般人の私には耐えられなかったのだ。
いやいやいや。
ここで下なんか向いてる暇なんてないから。
はっと気付いて顔を上げたときには、甘い風が私の横を通り過ぎようとしていた。
「あっ あの!」
咄嗟に呼び掛けてしまう。
火事場の馬鹿力的な、意気地無しの私にしてみれば奇跡的な呼び掛けだった。
...声は上擦っていたけれどね。
それでも彼の耳には届いたらしく、彼はゆっくりと立ち止まり、黒髪を揺らして振り返った。
「.....オレ?」
静かな廊下に素敵に響く低い声に、私は思わず身震いしつつも聞き惚れてしまっていた。
いやいやいや。
だから、聞き惚れちゃってる場合なんかじゃないんだってば!