風呂の湯に撃沈
【沙由紀 自信をもって】
その日も葉月は、機嫌がよかった。
「ママって、人付き合い苦手だったの?」
なんて聞いたもんだから、パパのママ自慢がはじまっちゃって席を立つのに時間がかかちゃってたけどね。
「そうさぁ、ママはさびしい家庭に育ったんだけど、パパがこの周りの人たちとどんどん仲良くさせてあげたから、すっかり人付き合いもうまくなっちゃって、最高だったよ」
「なんて言ったって、美人で人当たりも良くて、これ以上の女性はいないな!たぶん!」
「やさしくてきれいで性格が良くて、きっとどこにもいないと思うぞ。ああ、お前たちはママの血を引いてるからきっと大丈夫!」
なんて、永遠と続くわけね。言っておくけどね、パパ。わたし達はあなたの血も引いてるんだからお忘れなく。
わたしと同じ事を考えていたみたいで、葉月が一言言った。
「パパの子どもだってことも忘れないでよね!」
そしてなんと葉月は次の日の朝から、わたしが部屋に行く前に目を覚ましているようになったの。
あげく朝練も出ちゃうって、ちょっとびっくりなのよね。
それから、我が家は昔っから朝食はお味噌汁とごはんだったのに、葉月はトーストとコーヒーなんかを食べるようになった。しかも自分で作る。
食後は渋いお茶、って我が家に朝、コーヒーのいい匂いが漂うようになった。それだけで、いままでとまったく違う空間になっちゃうから不思議。
葉月が変わったのがわかった。
小さかった葉月が、きゅうにおとなになった気がした。
そんな朝が続いたある日、少し早くでかけたわたしは中学校をまわって一つ先の駅から乗ることにした。
朝練をしている学生たちの元気な声が響いていた。なつかしさに大きく伸びをした。
あ、あそこ走っているの葉月だ。
中学で陸上部に入ったのは少し意外だったけど、葉月は運動神経がいい方だったからね。
二人で並んで走っている。葉月よりも少し小柄な女の子。時折、葉月に向かって笑顔で話しかける。葉月は?目をこらして葉月の表情を見つめる。
笑っている。笑顔。うなずいてやさしい微笑みを返す。
なんだろう、涙が出そうになっちゃったの。友だちなんだね。心を許せる友だちなんだよね。
わたしは、葉月に気づかれないように急いで駅に向かった。
少しずつ、春に向かって季節は変わっていくのかもしれない。
その時は、街路樹の寒そうな姿も春の緑を想像できたんだ。だけど、本当はここから真冬の嵐がやってくるってことに気がつかなかった。
寒い一日だった。
急にこの冬一番の寒さが襲ってきたその日。
講師の先生は風邪でお休みになっちゃって、わたしはここぞと「エーデルワイス」に飛んでいった。
金曜日の午後は、仕込みがたいへんなのもわかってたし人手がもっと足りないって思ったから。
厨房で、デミグラスソースをかき混ぜながらにっこり笑うサトにいのそばにいるだけで幸せだった。
店を開ける時間になると、今日もたくさんの人たちがやってきていた。
「こんな北風の強い中、来てくれるなんてすごくうれしいな」
なんてまるでもうこの店の人みたいな事を言っちゃって、シェフに笑われちゃった。
あっちもこっちも、大変って時にカウベルの音が響いた。
「お久しぶりです~、テイクアウトできますか?」
シェフが「おお、いいですとも!」
と返す。
わたしは奥のテーブルにビーフシチューを持って歩き出したときだった。
あ、パパ。
それはパパだった。きっとパパは今日は遅いわたしの代わりに、葉月の大好物のオムライスをテイクアウトしに来たんだ。
そんな気の利いたことした事ないのにパパは、わたしの顔を見て呆然と立ち尽くす。
身体中がこわばっちゃって、落とさないようにテーブルに持って行く事だけを考えるのが精一杯だった。
何も言葉は交わさなかった。誰もパパに声をかけられなかった。
パパは、出来立てのとろとろの卵に包まれたオムライスを二つ持って帰った。
忙しそうに働くわたしから、目をそらすようにして。
シェフは難しい顔をして
「困った事にならないかい?」
サトにいは意を決したように
「俺が挨拶に行くから!」
サトにいったら、気が早いよ。
忙しさでなんとかしゃんとしてられたのは、良かったなって思う。じゃなきゃ、震えていたかもしれないもの。お皿も落としていたかも。
「大丈夫だから!パパにはわたしが話をするから。へいきへいき!」
店が終わるとそう言って、たっぷりの笑顔を作って「エーデルワイス」を出た。
だけど、わたしの足は家に向かわなかった。
気がついたら、『夢の湯』の桜の下に立っていた。
どうしよう、なんて言おう。なんて説明しよう。
どうしたらいい?
月明かりに照らされて桜の木は、やさしく枝を広げて立っていた。何も言わず。
北風は冷たくて凍えそうだったけど、わたしはそこから動けなかった。
「なにしてるんだい!風邪引いちまうよ!」
おばあちゃんの声がして、肩を抱かれた。
「おばあちゃん、わたし。大学辞めようかと思ってるんだ。パパになんて言ったらいいかな」
おばあちゃんのやせた腕がやけに力強く感じて、わたしはそう言ったの。
「ばかだねぇ、思ったとおりのことを言えばいいさ。自分の思ったままにお言いよ!波風立たせないで、なんて考えたって立つときゃ立つんだからさ!」
うなずいて、わたしは家に向かった。
今まで、波風立たせたくないって思ってきた。でも、今立たせないなんて不可能だよね、おばあちゃん。
わたしは、意を決して我が家に向かった。
その晩、我が家は生まれて初めての大嵐が襲ったようだった。
正確にはわたしとパパの間にだけどね。
パパは、見た事もないような怖い顔をして待っていた。
もう、十一時を回っていた。テレビもつけずに待っていた。
わたしは、まっすぐにリビングに行ってパパに言った。
その時にはもう、覚悟ができていたから怖くはなかった。
葉月は顔を出したけど、二人の異様さにすぐに部屋にもどっていったのが少し可哀想だった。
とばっちりが葉月にいっちゃうのは当たり前だった。
「わたしは、靖幸さんと結婚したいの。そして、エーデルワイスを二人で手伝って行きたい。だから、大学も辞めようと思ってる。四月から調理師学校に行くわ。手続きももうした。大学はパパに報告してからと思っていたんだけど」
邪魔される前に言いたい事だけを、一気に吐き出した。
夜中なのを忘れてパパは大声を出した。
「なんだって!パパは、パパは反対だからな!」
それはそうだよね。今の今まで娘は自分の母校で楽しい学生生活を続けるんだと思っていたんだからね。
「かっちゃんの息子さんってことだな」
それだけ言った。
かっちゃんっていうのはパパの同級生でサトにいのお父さん。忙しい人で滅多に会う事もないらしい。
「大学を辞めるって、そんな事許すはずないじゃないか!」
つぶやくようにパパが言う。
やっぱり、パパは大学を辞めるのが一番気に入らないんだ。
そう思っただけで、わたしの中の何かが堰をきったようにあふれ出した。
「わたしは、パパのために大学に行ってるんじゃない!パパやママの過ごした大学を選んだのは知りたかったから。でも、今は他に目標ができたの!生きていくための自分の目標があるの!パパのために生きてるんじゃない!わたしはわたしの人生を生きていくんだから」
もう、言葉にしてしまった事は消せない。
「話す事なんてない!決めた事なんだから」
涙が頬を伝って落ちた。
今まで、パパの思うように生きてきた。逆らう事なんてなかった。
だけど、これだけは譲れない。誰にも邪魔させない。
わたしはシャワーを浴びて、部屋に入った。
リビングにはパパの後姿があったけど声はかけなかった。どんな顔しているのか、なにを思っているのか、わたしは考えるのを辞めた。
いろんな事のあった一日は終わろうとしていた。
窓の外で北風の吹きぬける音がした。街路樹をゆらして通り抜ける音は、枯れて乾いた音がしていた。
冬は本番だね。今年はきっといつもより寒い冬だったのかもしれないな。そう確信して冷たいベッドに入った。
意外なほどぐっすりと深い眠りに入っていったのは、疲れていたからかな。身体が?心が?その晩は夢もみなかったの、不思議と。
翌朝、わたしはいつもと変わらなく朝食を作った。
目玉焼きにポテトサラダ。お味噌汁は、わたしとパパだけ。葉月はけげんそうな表情で、トーストに目玉焼きをのせてコーヒーを入れていた。
「あのさ~、なんかあったの?」
不思議よね。こんな朝の雰囲気の時ってなかったものね。
でもわたしは、パパと口をきかなかったしパパもわたしと目を合わせなかった。
葉月が朝練のために一番に家をでる。それから、パパがでかけてわたしが戸締りをしてでかける。
ちょっと前までは無い順番だな。
葉月は、ここのところ部活が楽しいらしいし朝練もちゃんとでているから、変わってきたのかもしれないね。
わたしも変わったのかもしれない。そして、パパも変わるんだろうか。
昨日の晩の事は、わたしは謝らなかったし謝ろうとは思わなかったのよね。
なぜだろう?今までに無い感情が、あふれて止まらなくなっちゃっている。
その晩、わたしは葉月の部屋に行った。
夕ご飯の時も朝と同様に、会話の無い食卓だったからね。
葉月だけが、どうしていいかわからないって顔していたし。話しておこうと思ったの。
今の葉月だったら、少しでも理解してくれるかもしれないとも感じたから。
本当に考えてもみない話に、葉月は何にも言えないで聞いていた。
だけど、サトにいのことは「応援するよ」とだけ、振り絞るように言ってくれたのね。うれしかった。
たくさんの壁を乗り越えなくちゃいけないけど、葉月の言葉はわたしに勇気をくれた。
何日も我が家の乾いた空気は戻らなかったし、わたしもあえて戻そうとはしなかった。
間に立っていつになくおしゃべりをしているのが葉月ってところは、驚いちゃうけど。
ごめんね、葉月。心の中で何度もつぶやいた。
でも、これだけは譲れない。
わたしの中の揺らぎ無い決心が、不思議だった。
わたしは今までみんなの為に、家族がどうしたら楽しく笑顔で暮らしていけるか、そんなことばかり考えてきたのにね。
自分が別の人みたいに感じられちゃった。
だけど、いつまでものこのままではいけないのよね。そう、どこかで声がしているのも事実だった。