風呂の湯に撃沈

番台から愛

   番台から愛

 土曜日忙しかった夕食時の「エーデルワイス」は、急に突然お客さんが途切れた。

「そうそう、年に一度か二度は、こんな日があるんだよねぇ。デミも残り少ないし今日はこのへんで終わろうか」
 シェフが白い髭をなでなから、にっこり微笑んで、閉店の看板を出した。

「沙友紀ちゃん、今日はあがっていいよ。ご苦労様。靖幸、送っていっておやりよ」
 サトにいは、仕込みを気にしていたけど
「なに言ってんだい!お前さんが手伝う前は一人でやってたんだ、大丈夫に決まってるさ」

 シェフはわたしたちの事、応援してくれているのよね。そんな気持ちが伝わってくるのが嬉しかった。

 二人で、大回りして近所の神社を通っていく事にした。
 大回りっていうよりも、反対方向だから寄り道かな。

 神社はもう、静かになっていて二人で手を合わせた。
(パパが認めてくれますように。葉月もパパも幸せになりますように)
 心の中でつぶやいた。

(そうだ、サトにいと結婚できますように)

 隣で、サトにいの言葉が聞こえてきた。パンパンと手を叩いてこっちを振り向く。
「沙友紀と結婚できますように」
 サトにいの顔を見た。

「ねっ!」
 サトにいの言葉に、すぐに答えた。
「うん!結婚できますように!わたしもお祈りしたわ」

 ゆっくりと境内を歩きながら
「パパは反対したろう?あれから何か言ってこないの?」

 なんだかパパの反対した様子を知らせるのは気が引けて、詳しい事は何も言ってなかった。サトにいがパパに嫌われていると思わないか気になって。

 サトにいにパパを嫌いになってほしくなかった。できれば仲良くなってほしい。

 そんな思いも込めて
「大学辞めてほしくないみたいなんだけどね、わたしは調理師の学校に行きたいの。サトにいの事とは関係なくね。結婚の事はまだなんとか言われたわけじゃないの」

 イチョウの木が葉っぱ一つもなくなって、寒そうに風に吹かれている。
「寒くない?こっちにおいで」
 わたしはサトにいの上着の中に子猫のようにもぐりこんだ。デミグラスソースの匂いがする。
「サトにい、心配?パパが反対したらどうする?」
 意地悪なわたしがそんな質問をする。

「心配してないよ。もう少ししたらきっとパパも変わると思うから。俺がネックなんじゃなければね」
 ペロッと舌を出して笑う。あったかいサトにいの胸が揺れた。

 ああ、本当にわたしはこの人と一緒に生きて行きたい。そう思うと胸の中がきゅうっと締め付けられる。パパに理解してもらおう。わたしの気持ち、ちゃんと理解してもらおう。


 私たちは、また「エーデルワイス」のある通りに出て路地を入っていった。
 『夢の湯』の桜の木の下でオヤスミを言った。わたしが葉月の様子を見ていくと言ったからね。サトにいは手を振って大通りのほうに消えていった。

 サトにいの見えなくなっていく背中に向かって、
(わたし、みんなが納得してくれる為にがんばるからね)
と誓った。

そう、まず葉月だ。あの子、わたしがいなくなってもちゃんとやっていけるようになるんだろうか。
まだ、ヘアーウィッグとメガネで別人のまま番台に座っているのかしら。


ため息をついたら肩を叩かれて振り返る。

「お前さんが、いろいろ悩んでるのがなんでなのかわかったよ」
 にやりと笑ったのは、おばあちゃんだった。

「それで?結婚とか考えてるのかい?」

 桜の木をやわらかい風が通り過ぎる。木の根元に落ち葉がくるくると円をかいて踊った。
 わたしは、こくんとうなずく。

「ふ~寒いねぇ、中に入ろうかね。葉月は良くやってくれてるよ。いろいろと変わって来てるしね。寂しい原因になってるものがなんなのかわかりゃ、たいした事ないもんだよ」

おばあちゃんは、なんでもお見通しみたいで頼りになっちゃう存在ね。
葉月の寂しさの原因って何だと思ってるのかしら。

首をかしげておばあちゃんを見つめると
「まあ、お前さんも葉月が帰るから番台に座っていくといい。そうだ、ニッキさんが来てるよ」
不思議な疑問は、ニッキーという単語で消えてしまった。

そうなんだ、今日はニッキーがお風呂に入りに来ているのか。
ふふ、また大騒ぎしているんだろうな。

わたしは、女湯と書かれている暖簾をくぐって引き戸を開けた。

お風呂から出てきてロッカーのこっち側で、お茶を飲んでおしゃべりをしているおばあさんが二人いた。
ほっかほかで湯気が出てて、幸せそうな顔している。湯ぶねはみえないけど静かだった。

「もうすぐ、十時だから帰んなさいよ葉月」
 葉月は頬が上気していて、笑顔でわたしをみて嬉しそうに
「変な外国の人がまた、来てるんだよ。あたしの事ベッピンさんだって!ベッピンさんって意味わかってんのかな?おもしろ~」
 そんな楽しそうに笑う葉月、いつから見てないだろうな。


「ご苦労様!今日はお店が早く終わったからわたしも少し手伝っていくわね」
 番台の横についている小さな階段を下りながら

「あたし、よく白昼夢ってやつ見ちゃうんだよね~。なんて、笑っちゃうんだけどさ、おじいちゃんと話す夢とか見ちゃうんだよ。やっばいよ、それが超楽しいの。どうしようあたし、頭大丈夫かな」
 おばあちゃんがくすくす笑っている。

「さあさ、早く帰ってパパの面倒見てやるんだよ!はいよ、バイト代!」
 おばあちゃんを拝むようにして、バイト代を受け取ると葉月は帰って行った。

 変わりにわたしが、狭い階段を上って番台に上がる。

 男湯ではロッカーのむこうからニッキーの声がしていて、まるで何人もの人がいるみたい。

「アノ絵は富士山デスネ~、いつからアルンデスカ?イイデスネ~、ワンダフォ~」
 相変わらず、そこいら中のものに感動しまくりって感じなのよね。
 本当に変な外国人。


 そんな事を考えていた。でもすぐにわたしは、くらっとしためまいに襲われた。

 あれれ、今日はそんなに目が回るくらいに忙しかったわけじゃなかったはず。

 すぅっと身体が浮いたような感覚が、疲れてないのに疲れているみたいで心地よかった。そうそう、お風呂に入っているみたいな感覚、かしら?

 周りの景色もぼやけて見えてきた。白い湯気の中にいるみたい。

『あたしゃね、本当にこの子にゃ関心してるんでさぁ。母親がなくなってから父親の事、心配してねぇ、痛々しいくらいなんですよ』

 おじいちゃんの声に目を開ける。やっぱりここは番台で、座っている景色。だけど、わたしの目に映る『夢の湯』は人がたくさんいてあったかい人たちが湯ぶねにも脱衣所にもいて、おしゃべりして笑って楽しそうで幸せそうだ。

「だってぇ、ママいないからパパのしんぱいしゅるの、はづきのヤクメだってジージ言ったかりゃあ~」
 真っ黒い瞳の女の子が番台に座っていて、わたしのほうを振り返って口を尖らせた。

 葉月?小さい頃の葉月だよね。
「そりゃ、良いこというじゃないか、ジージさんよ」
 番台の横に立っているのは、シェフ?サトにいのおじいちゃんだ。

白い髭もないし顔に艶があるのは、今より若いからかな。葉月の頭を撫でながら、こっちを向いている。

「ジージさんよ、お役目果たさないとならないねぇ。この子達の母代わりまでしなくちゃなんないよ。大変だねぇ」
 サトにいのおじいちゃんの事を、葉月がにらみつける。

「ジージは、はづきのそばにずっとずっといてくれるんりゃもん!どこにも行かないもん!」
葉月ったら、小さい頃から気が強いな。

こんなに表情豊かな葉月を見ると、今の葉月が想像もできない。人と話すときは、下向くかそっぽ向いちゃうし、人の目を見て話さなくなっちゃったものね。

『あたしゃ、なんでもできるってもんだよ。この子達にゃ、あたしゃ必要なんだろうさ。うれしいね~このおいぼれでも役に立つじゃないか』
 おじいちゃんの顔は見えないけど、すごく嬉しそうに話している。

「ジージ、はづきおいてどこか行ったら、ぜったいダメだかりゃね!」
『はいよ、ジージはずっとずっと、葉月といっしょにいるから、心配しなくていいんだよ』
「ジージ、だいちゅき~。ジージもはづきのこと、しゅき?」
『困っちまいそうなくらい大好きだねぇ』
 サトにいのおじいちゃんが、大きな声で笑い出す。

「こりゃ大変だね。ちっちゃな恋人ができちゃったね」

 サトにいのおじいちゃんは、ほかほかの湯気をたてて笑いながら、出て行った。

『葉月がお嫁に行って子どもができたら、またここに座らせてやりたいもんだよ』
 おじいちゃんが、小さな声でつぶやいた。

「いかないよぉ、はづきずっとここにすわってりゅもん。ずっとジージのおひざの上でおきゃくしゃんにいらっちゃいませっていうもん」
 葉月の真剣な瞳がきらきら光っている。

『そうかいそうかい、ジージは幸せもんだねぇ。こんなにかわいい子と一緒にいられるなんてねぇ』
 葉月が入ってきた人に、笑顔で大きな声をあげる。

「いらっちゃいませ~、あったまっていってくだちゃいね~」
 入ってきた人まで笑顔にしているのは、葉月のこぼれんばかりの笑顔だよね。すごく可愛らしいもの。


 急に身体が引っ張られる。どこに引っ張っていかれちゃうのかな。くらくらっと目が回る。白い湯気の中を泳ぐようにして身体がゆれてふわりと浮かんでいるみたい。

 ガクンっと夢からさめたみたいに、頭がゆれた。

 あたりを見回すと、見慣れた『夢の湯』だ。ちゃんとついたて代わりのロッカーがあって湯ぶねは見えない。
「おやすみなさ~い」
 近所のおばさんが出て行く。

「おやすみなさい」
 わたしは、きっと寝ぼけた顔をしていると思うな。いけないいけない、ぶるんと顔を振った。
 突然、頭の上の方から太い声が聞こえてきた。

『本当に、じじいは約束をやぶっちまったねぇ』
 え?おじいちゃんの声?

 わたしは番台の後ろを振り返った。でもそこには、石鹸やシャンプーなんかを置いてある棚があるだけだ。
『葉月にはあわす顔がないねぇ、おっと死んじまったもんは顔をあわす事なんてできなかったっけな』
 亡くなったおじいちゃんが、ここにいるのかな?たしかに聞こえてくるこのがらがらした声、話し方。
「沙友紀、だよ。おじいちゃん」

 小さな声でつぶやいてみた。

『おお、沙友紀も大きくなったもんだ。嬉しいねぇ、葉月も沙友紀もこんな姿が見られるなんてねぇ。神様に感謝しなくちゃ罰が当たるってぇもんだよ』
「葉月にも会ったの?」

 そういえば、さっき帰る時に葉月が夢を見たとか何とかって言っていた。

『葉月は、このうそつきジジイを許してくれたよ。胸が痛むねぇ』

 そうか、おじいちゃんは葉月にずっと一緒だって言ったのに亡くなっちゃった事を言っているんだ。

 それが気になっちゃって、天国にいけないのかしら?

「わたしね、葉月の事ずっと心配してきたの。でも昔の葉月の事思い出したら大丈夫なんじゃないかって思った。だって、あんなに笑顔がかわいい女の子だったんだもん」

そうだ、小さい頃の葉月は人が大好きでどんな人にもかわいがられるような子だったっけ。
そんな葉月は心の深いところに暖かい笑顔を持っているのよね、きっと。

今は笑わなくなっちゃったけど、それは本当の葉月じゃないんだものね。

だから、きっといつかわからないけど葉月は自分を取り戻す。
それだけ強い気持ちを持っている子だったじゃないの。

なんで、わたしそんな事忘れていたんだろう。
「葉月は、おじいちゃんの事恨んでなんかないよ。本当にやさしい子だもの」

 そう言いながら、何かのきっかけがあればいいんじゃないかなと思う。

『そうそう、そんな風に言ってくれたんだよねぇ。じじいは涙がでたよ。ぽっくり逝きたいなんて言うもんじゃないねぇ、本当にぽっくり逝っちまったよ。すまないねぇ、沙友紀にも辛い思いばかりさせちまったねぇ』

そうだった。おじいちゃんは「ぽっくり逝きたい」が口癖だったもんね。

本当に逝っちゃうのは早すぎたってみんなそう思ったけど。

『じじいの予定では、沙友紀も葉月も結婚して子どもができて、それまではぽっくりどころか忙しい毎日のはずだったんだけどねぇ。うまくいかないもんだよ』
天国にいるはずのおじいちゃんが、ぼやいている。

おかしくて笑い出しちゃった。

『まあ、じじいはそろそろ店じまいの時間かな、あんまり番台に下りてくると大目玉食らっちまうよ』
 そう言うと、それから何度呼びかけてもおじいちゃんんの声は聞こえなかった。


わたしは、ふとパパの事を相談するんだったと思った。
葉月は、大丈夫。

だけどパパはまだかたくななまま、凍ってしまったまま解ける気配もないんだった。
今は、それが一番きつい。

「ハ~イ、さゆき~お疲れ様デス。いいお湯でしたネ。オフロヤサンはなんで富士山描いてアルンデスカ?不思議デ~ス。誰に聞いてもワカラナイネ~」
ニッキーが立っていた。

ほかほかと湯気がたっていて真っ赤な顔をしている。涼しそうな青い瞳がきらきら輝いて星みたい。
 いったいどれ位入っていたのかしら。湯あたりしちゃいそうだよ、大丈夫かな。

「オウ~、さゆき、誰かにアイタイと思ってマスネ~顔にちゃんと書いてアリマス」
 そう、ニッキーが言ったとおり、わたしの頭の中でママの顔が笑っている。

「さゆき~、会えますデスヨ。ワタシこの間アゲマシタネ。アイタイ人に会うことデキマス石、まだ持ってマスネ?」
 ニッキーが何言っているのか、わたしはその時わからなかった。

「オウ~外寒そうデスネ~、帰るのイヤデスネ~」
 北風が吹いて扉のすき間から暖かい湯気を揺らした。

「また来てくださいな。ここのお湯は芯からぽっかぽかになるから、お家までさめないですよ」
 にっこり微笑んで、ニッキーの不満そうな顔を見つめた。

 もっともニッキーがどこに住んでいるのか知らなかったっけ。

「しかたないデスネ~、心残りがたくさんデスガ帰りますデス。あの桜の木、咲いたらキレイデショウネ~」
 ガラリと引き戸を開けながらニッキーがもう一度言った。

「桜、ハナ咲いたらさゆきに、プロポーズしてもイイデスカ?」
 口をまぬけに開けたままのわたしに、手を振ってニッキーは帰って行った。

 プロポーズって、何のこと言っているんだろう?

 そうそう、それからなんだか変な事言ってなかった?
 そうだ、会うことデキマス石、ってこの間もらった石のこと?

 わたしはお財布の中にしまってあった小さな石を取り出した。それは、ちょうど真珠くらいで真珠じゃないけどピンク色に光をまとって、すごくきれいな石だった。

 会いたい人に会える?この石で?どうすればいいのかな?

 わたしは手のひらに、ピンク色の石をのせてぎゅっと握り締めた。
 ママに会いたい。

 わたしはどうしたらいいのか、教えてほしい。パパの気持ちはどうすれば解けてくれるのか、ママはわたしの決断した事、どう思うのか聞きたい。
 ママに会いたい。

 わたしの手の中で、ピンク色の石が暖かくなっていくのがわかった。
 あ、溶けちゃう。あわてて手のひらを開いてみるとそこに、あったはずの石が消えていた。
 ああ、すごくきれいな石だったのに。


『沙友紀は、どうしたいの?』
 声がして目の前にママが立っていた。やわらかい微笑みでわたしを見つめている。
 わたし、わたしはどうしたいのか?

「大学を辞めて調理師になりたいの。そしてサトにいと結婚してお店をいっしょにやっていきたい。だけどわたしがいなくなっちゃうと家のことは、誰がやったらいいのかな?」

 ママは、涼しい表情でうなずいた。

 ママに会えた。今目の前にママがいる。

『沙友紀はもう、決めてるじゃない。大学を辞める事も調理師になる事も結婚する事も、みんな決めてるよね。迷ってないよね。だったらその通りに進めばいいわ』

「でも、パパが許してくれないの。それに家のことも心配だし」

『パパはもう、許してるわ。家のことは大丈夫よ。みんな沙友紀の幸せを願ってるんだもの』
 やさしくてあったかい。わたしの目から涙がこぼれた。

「ママはどうして死んじゃったの?」
 そんな聞いても仕方ない事を、小さな子どものようにわたしは聞いた。

 せっかく会えたのに。そんな言ってもしかたない事。わたしは自分の言葉を消しゴムで消してしまいたかった。
『ごめんね、沙友紀には一番辛い思いをさせちゃったね。もっともっと、沙友紀と一緒の時間を過ごしたかったんだけどね。葉月とも』
 ママに謝ってほしかったんじゃないのに。

 そうだ、葉月はわたしよりもママを知らない。

「ごめんなさい、そんな事言いたかったわけじゃないのに」
『いいよ。いつもお母さんの役、やらせちゃってごめんね。でも本当にしっかりやっていてくれたね。沙友紀のことママは誇りに思ってるよ。沙友紀がいたから、ママはなんの心配もなく天国に行けたんだよ。それからね、葉月は何でもできるよ。やらないだけ。やらなくちゃ何にもできないってことは沙友紀が一番知ってる事だよね』

「本当に?本当にわたしはわたしのことだけ考えてていいの?自分勝手じゃない?」

 わたしの中に自分の幸せだけを願っているわたしがいて、どこかでものすごくそれを非難しているんだ。大嫌いって声をあげているの。
『自分のことばかり考えるなんて、そんな事できないよ沙友紀には。悩む事は必要な事だよ、おとなになる為にはね。たくさん悩んでたくさん考えて、それが生きてるって事だから』


「ママ!」

 わたしの目からあふれた涙は止まらなかった。

 微笑んでいるママの姿は白いもやの中に消えていきそうだった。まだ、まだたくさん話したい事あるの。消えちゃわないで。

『いつでも、あなたのそばにいて見守っているから。自信を持っていきなさい』

「待って!」

 わたしの声は白い雲の中にこだましていた。

 もっともっと、サトにいの事とか友だちの事とか、お料理が上手になった事とか家事もスムーズにできるようになった事とか話したい事は山ほどあるのに。

 あたりは真っ白い世界で覆われていた。どんなに目をこらしてもなんにも見えなかった。


「もうそろそろ、店じまいだよ!ぼぅっとしてないでおかえりよ!」
おばあちゃんが片づけを始めていた。

『夢の湯』はもう誰も入っていなかった。
それでも、白い湯気が湯ぶねから立ち上っていて、今さっき会ったママの姿をさがしていた。
わたしの頬には涙の後があったけど、乾いていた。


 もう、帰らないとパパが心配するね。
 手伝うといったわたしを外に押し出すとおばあちゃんは、『夢の湯』の玄関を閉めてしまった。

北風がふいて玄関の扉をがたがた揺らした。

入り口の電気は消されて脱衣所の明かりがゆらゆら揺れて見えた。
しまっちゃった玄関は、とても寂しい景色に思えた。

桜の木に「おやすみ」を言うと、家に向かった。
 冬はまだまだ続くのかしら。はやく春が来るといいな。


☆☆☆☆☆☆☆

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