風呂の湯に撃沈

風呂の湯に撃沈 3 夢の湯


    『夢の湯』

 ちょっと、記憶の糸がぷつんと切れたみたいになくなった。
 眠っていたのかしら、なんだか頭が重かった。目の前がまるで湯船の中にいるみたいに真っ白だ。
 妙にがやがやしている。
 あれ、お風呂の中や湯船のほうからも、がやがやと人の声がしているなんて。
 今日は人が多いのかしら。
 目をつぶっていたのか、重いまぶたをゆっくり開けた。
 眩しい世界がわっと広がった。

 わぁ、どうしちゃったの?
 湯船には子どもとか、たくさん入っていて遊んでいる。
 女湯には若いお母さんが赤ちゃんを脱衣所にいるおばさんに預けて、湯船に入って行く。
 小さなあかちゃんはほかほか湯気をたてて、脱衣所にあるベビーベッドに寝かされていて何人ものおばさんたちにあやされながら、服を着せてもらっている。
 あかちゃんのお母さんは、他の人と話しなんかしながらゆっくりお湯につかっている。

 たくさんの知り合いと一緒に、お風呂に来たのかしら。
 男湯からピィ~と口笛がなる。
「はいよ、もう出るのかい?」と女湯から声がしておばさんが出てくる
口笛をふいた男の子は脱衣所で「なんか飲んでもい~い?」って怒鳴っている。
「いいから、さっさと着替えるんだよ!」っておばさんも男湯と女湯の隔てられた反対側に向かって大きな声を返す。
 言っているそばからパンツもはかないで、小さな冷蔵庫からコーヒー牛乳を出して「いただきま~す」と声を上げて飲み始めた。
 そうそう、わたしが子どもの頃には飲み物が冷蔵庫に入っていて番台でお金を払ったんだっけ。
「まったく」っていいながらおばさんが、番台にお金を置いた。

 今では、みんな自動販売機だものね。
 今では?目の前の光景は、なに?
 
 目の前に置かれた小銭を、見つめながらうろたえる。
 えっと、どうすればいいんだっけ?

 わたしがそう思っていると、野太い声が聞こえた。
『子どもは、そんなことが楽しみなもんですなぁ』
『あたしゃ、最近牛乳一本飲めねぇんですよぉ、年ですかねぇ、逝くときゃポックリと逝きたいもんでさ~ね』
 がはははと笑う。
 わたしが座っている番台から聞こえる声。
 聞き覚えがある、懐かしい声だ。

 そう、おじいちゃんの声だ。
 亡くなったおじいちゃんの声。いつもここで遊んでもらったおじいちゃん。
 なんで?
 そこでわたしは、ようやく気がついた。

 ついたて代わりのロッカーがない。
 だからなんだか、明るく見えるのね。『夢の湯』ってこんなに広かったっけ?

 脱衣所は番台から丸見えだし、湯船までばっちり見渡せちゃう。
 やだ、男湯まで見えちゃう。
 ありがたいことに男湯には、子どもとおじいさんくらいしかいなかった。わたしは恥ずかしくて目を伏せた。
 女湯には、小さい子とかあかちゃんを抱いたおかあさん、それとおばあちゃんとかおばさん。
けっこうたくさん入っている。

 ここ、どこ?
 『夢の湯』には違いないけど、現在の『夢の湯』じゃないわよね。
 昔の銭湯よね、ここ。
 何が何だかわからない。

 女湯の籐でできた籠を片づけていた女の人がこっちへ歩いてくる。
 妊婦さんだ、お腹が大きいもの。にこにこしてわたしの方に歩いてくる。

 あれ?今度はわたしは番台じゃなくて、脱衣所のベンチに腰掛けている。
 番台を見上げると、おじいちゃんがにこっと笑って手を振った。
 おじいちゃん、何年会ってないのかな。懐かしくって涙がでそう。
『沙友紀は、ほんとにおねえちゃんになったもんだよねぇ。ママさんを助けていろんな事、がんばっているよねぇ。立派立派!』
 このしゃべり方。大好きだったな、おじいちゃん。
 おじいちゃんにほめられると思うと、小さなわたしはちょっと胸はっちゃっていたっけ。がんばっちゃおうかなって思っていたのよね。

『そうよ~、沙友紀はとってもおねえちゃんになったのよ。ねっ!』
 ママだ。お腹が大きい女の人はママだった。まっすぐにわたしのとこに歩いてくる。
 そうして、しゃがんでわたしの頭に手をのせた。

 大好きなママが目の前にいる。
(ママ、どうして天国に行っちゃったの?ママがいなくなってからパパはつらくて生きていけなくなりそうよ。今でも、時々肩を震わせて一人で泣いているもの。わたし、わたしだってさびしくて悲しくて)
 そう、声にしたつもりだったけど、ママには聞こえてなかったみたいだった。

『もうすぐよ、もうすぐ本当におねえちゃんになるのよ、沙友紀おねえちゃんよ。一緒にたくさんあかちゃんかわいがってね』
 ママはわたしの頭をやさしくなでる。やわらかい暖かい瞳がなつかしい。
 たくさんたくさん、わたしはママに甘えて育った。いつも子どもの頃はママが傍らで笑っていた。
 わたしの中で、きっと本当に一番幸せだった時だったと思う。
 手を伸ばしてママに触れようと思った。
 そのとたん、脱衣所まで湯気でいっぱいになる。
 湯気の向こうが見えない。ママは?ママはどこにいるの?
 あれ、くらくらする。目が回る。湯気でなんにも見えない。
 わたしは誰かに引っ張られるように記憶の糸が消えてゆくのだけがわかった。


 肩を叩かれて気がついた。
「ドウしましたかー?」
 ニッキーだった。わたしは、今の『夢の湯』の番台に座っていた。
 夢を見ていたのかもしれない。
 なんて懐かしい夢だったんだろう。もっともっと夢の中にいたかった。だけど、夢だから目がさめちゃったのかしらね、仕方ない。
 少しだけ、胸の中に隙間風が吹く。寂しさと懐かしさが、マーブル模様の様に渦巻いている。
 
「他に行きたいところはありますか?」
 と真っ直ぐにこちらを見つめる青い目にたずねると、首をふった。
「イイエ、またココきてイイデスカ?今度は、オカネハラッテお風呂に入りにキマス」
 おばあちゃんとは、なんだか仲良くなったみたいだった。まあ、おばあちゃんは誰とでも仲良しになれるのが特技みたいなものなんだけどね。

 朝出会った奇妙な外国人のニッキーとは、その日はまるで一日中一緒にいるみたいな感じだった。
 でも、変わっているけど優しいのかも知れない。別れ際に、わたしの手のひらにピンク色の小さな石をのせて
「コレハお礼デス。アイタイ人に会うことデキマス石です。お守りにシテクダサイ」

 もう、夕ご飯の支度をしなくちゃいけない時間だった。
 あわてて手を振って、ニッキーと別れた。
 今日の夕ご飯は何にしようかな。パパと葉月が元気になれるもの作ってあげなくちゃな。
 あたりが薄暗くなってきた中で、手のひらの中でパールみたいに石は輝いてきれいだった。ちょっと嬉しくてお財布の中にしまった。

 その晩、わたしはプロポーズされた事をパパになんて言おうか考えていた。
 どうしたらパパにショックを与えないだろう?
 考えながらパパと葉月の好きなクラムチャウダーを作った。わたしも小さい頃から大好きなメニューで、葉月がまだ赤ちゃんだった頃忙しそうなママから作り方を教えてもらったシチュー。
 あれから、わたしはこんなにおいしいクラムチャウダー作れるようになったのにな。ママにほめてもらえないなんて本当に残念だ。
 でも、その分二人とも「おいしい、おいしい」って食べてくれたから、嬉しかったけど。そうしてパパが
「沙友紀は、本当にお料理が上手だなぁ。もう、いつ嫁に行ってもいいくらいだ、うん」
 今が言うときかも、そう思った。
 息を吸い込んだ。
「いやぁ、だめだ、だめだ。まだまだ嫁には行っちゃだめだ。まだ大学生だったのに、俺はなんて事言っているんだ。嫁に行くのはずっとずっと先でいいからな。なんなら、行かなくてもいいさ!」
 そういうと立ち上がって、パパは一人で納得したようにクラムチャウダーのおかわりをしてつぶやいた。
「ずっと、沙友紀の手料理が食べられますように!神様、仏様!」
 とか言って、天井を見上げて目を閉じた。
 なんだかその背中が痛々しくて、言葉にする前に飲み込んだ。 
 だめだ。言えない。
「あたしは料理できないしね、おねえちゃん、これからもよろしく!」
 と葉月も立ち上がって、おかわりに行く。

 お鍋の中はからっぽになったけど、なんとなく複雑な気持ちがいっぱいになって、パパに言おうと思った気持ちと勇気がからっぽになった。

 わたしが、お嫁さんに行っちゃったらパパは悲しむかもしれない。葉月は怒り出すかもね。
 そう、もう少しゆっくり考える事にしよう。
 のどもとまで出かかった言葉が、胸の中でムズムズする。

 ママが亡くなってから痩せてやつれて食欲も全然なかったパパも、最近はわたしの作るご飯を
たくさん食べるようになったし。
 葉月も好き嫌いばっかりだったけど、いろいろと工夫してにんじんもピーマンも食べられるようになったんだもの。
 そんな小さなことが、わたしの幸せになっている。
 サトにいのところに行くのは、まだまだ先の事になりそうだ。少しさびしくてちょっとだけ安心したような、それでいて不安が胸の奥でくすぶっているのがわかった。

 窓のカーテンを引いた。ベランダのクロッカスはまだまだ芽がでないわね。寒そうな景色がわたしの気持ちも寒くさせた。北風が木の葉を飛ばして吹きぬけていった。風は心の中も通り過ぎるものなんだ、そう思った。
 
 その晩寝る前に、お風呂から上がってママのお仏壇に手をあわせて報告した。
 ママ、わたしプロポーズされちゃったの。
 小さいときから大好きだったサトにい、って覚えている? 
 あ、でも安心して、今すぐにこの家を出たりしないわ。パパも最近元気になってきたしね。
 そうだ、葉月がね、少し心配なの。ママが天国に行っちゃって二年もしないうちにおじいちゃんが亡くなったでしょう?
 あの時、葉月が四歳でわたしが十だったかな。
 気がついたらあの子、お友だち一人もいないの。
 葉月に聞いても「友だちなんていらないから」って言うの。
 おばあちゃんが参観日に学校に見に行っても、いつでも一人だって言うのよ。
 わたしが中学校脇を通る時葉月の姿見つけるとね、いつでも、一人で誰とも話もしてないの。
 大丈夫かな、あの子。
 もともと、器用な子じゃなかったけど、それまでは近所の子たちと遊んだりしてたよね?
 このまま、人と付き合う事ができない子になっちゃったらどうしよう。
 ママ、どうか、天国からわたしたちの事、見守っていてね。

 お仏壇のママは、にっこりと微笑んでいる。
 昼間『夢の湯』で見たママの姿を思い出していた。
 もっともっと話したい事、だくさんあったのに。ずっとずっとママの顔見ていたかったのに。
 風が木々を揺らす音がした。
 明日は、寒いのかしら。まだまだ、春は遠い。春が恋しい心は震えていた。

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