風呂の湯に撃沈

ママの言葉

    ママの言葉

 銭湯の玄関の暖簾をくぐると、下駄箱が両脇にあって履物をその中にしまう。すのこが引いてあって足の裏が心地よい。
 女湯の扉を開けると、番台にはおばあちゃんが座っていた。

「あらま、沙友紀。そろそろ来る頃だろうと思ってたよ。あんまり、いろんな事気にすると疲れちゃうから適当にしときなよ!」
 おばあちゃんが言っているのはきっと、あらぬ噂話に違いないよね。おばあちゃんは何でもお見通しって事。

「うん」
 わたしは、言おうか言うまいか考えて
「大学辞めるって言ったらパパ悲しむよね」
 とわかりきった事を口にした。

「なに言ってんだい。パパがなんて言ったってパパの人生でもありゃしないんだからお前さんの好きなようにしたらいいさ!」
 ちょっと安心。心強い味方。
「ママだったら、なんて言うかなぁ」
 おばあちゃんはにやっと笑うと
「お前さんが幸せになる事が一番に決まってるさ。一風呂あびていきなよ!大きい風呂はいいよぉ」

 わたしは、久々に『夢の湯』であったまっていく事にした。

 ついたての代わりに立っているロッカーの横を回り込むとなつかしい昔と変わらない脱衣所。

棚から籠を出してきて服を入れる。湯気で見えなくなっている洗い場に入っていくといい匂いがする。

 小さい頃は、ここの匂いで季節を感じた。ゆず湯とか菖蒲湯とかはもちろん、桜の湯の時もあったし、バラの湯なんてのもあったっけ。

 湯船はやっぱり昔と変わらなく広くてあっつい位のお湯がザバァっとあふれ落ちる。

 そうなの。ここは温泉じゃないけど地下水をくみ上げて使っているから、湯量たっぷりで本当に気持ちがいい。

 ふっと肩の力が抜けていくのがわかる。大きく描かれている変わらない富士山の絵が、小さい頃と同じ心持ちにさせてくれる。なんとなく、ふわっと身体が軽くなる。富士山がぼんやりと湯気で隠れて見えなくなっていく。

 不意に洗い場の、真っ白い湯煙の向こう側で若い女の人の声がした。

 いつ入ってきたのかな。さっきまでおばさんが二人くらいしかいなかったけど。
 ざわざわした人の影がいくつも見える。

『さぁさ、はづきちゃんはおばあちゃんに任せて、ママと一緒にゆっくりお風呂にはいりましょうね、さゆき』
 この間と同じ。ママの声。

 湯気がたくさんで、はっきり見えないけどこの声。忘れるわけないママの声。
『葉月が泣いてるよ。いいの?行かなくて』
 この間と同じ女の子の声。きっとわたしだ。わたし、夢見ているのかしら。

『いいのよ。ほら、おばあちゃんも他の人も赤ちゃんはかわいいから世話してくれる人はたくさんいるのよ。それより沙友紀と一緒の時間がママには大切なの。葉月は手がかかっちゃうからね。ごめんね、いつもたくさん遊んであげられなくてね』
 ママのそんな言葉、わたし覚えてない。そんな事言ってくれていたなんて。
 でもね、きっとわたしの中のどこかにあったのかもしれない。

いつも思っていたもの。わたしはママの愛情たっぷりもらっているけど、葉月は半分ももらってないんじゃないかって。
 だから、一生懸命葉月の世話もしたし、できたんだと思う。

 わたしには、こんなにたくさんママの愛情を受けた時間があった。
ママは早くに亡くなっちゃったけど、たくさんあったかいものをもらったよね。

 なんだったか、どうしてなんだかわからないけど、ママの事考えると身体中に力が湧いてくるんだもの。
『ママはね、いつでも沙友紀の幸せを願ってるのよ。だからね~ほらほら、あそぼ~!』
 きゃあきゃあ笑い転げる女の子の声、わたしこんな風に楽しそうに笑っていたんだ。

ママの笑う声はかわいらしかった。二人ともとっても楽しそうで幸せそうなんだもの。わたし、気がついたら涙があふれていた。
 
 笑い声が遠くのほうにどんどん遠ざかる。

 まだまだ、ママの声聞いていたいのに。

「待って!」って言って湯船から立ち上がったら、くらっと目が回った。立ちくらみ?貧血?
 身体中が真っ白い雲の中、ふわりと浮かんでいる気がした。

「いつまで入ってるんだい?のぼせちまうよ!」
 おばあちゃんの声で、ゆでだこになっている自分に気がついた。

 いけない、いけない。湯船につかりすぎると倒れちゃうよね。
 ママの声が聞こえたのは、やっぱり夢なのかしら。いまでも耳に残っている。


「おばあちゃん。ママってさ、葉月の世話頼んでいつもわたしとお風呂入ったりしてた?」
 もうさっさと、店じまいの片づけをしながら
「そりゃそうさ、赤ちゃんは誰でも面倒見てくれてたからね。昔はいい時代だったよね。はだかになりゃ誰でも家族みたいなもんさ」

 そうか、わたしはママとお風呂でたくさん遊んでもらっていたんだね。


「そうそう、葉月だけど、やっぱりいいね。番台はあの子の本当の姿がちょろちょろ出てくるよ。まったくじじいがぽっくり逝っちまったのが、ショックだったんだろうね」

 子どもの頃の笑顔いっぱいのかわいい葉月にもどれるのかな?
 そうしたら、わたしの心配の種は一つ減るんだけど。


「とにかく、ぽっくり逝っちまったもんに責任とらせるだけだよ!」

 ぽっくり逝っちまったもん、っておじいちゃんの事かな?どういう意味だろう?
 不思議な顔して脱衣所で着替えていると、おばあちゃんは湯船方の電気を消して
「パパがいらん心配をするから、さっさとおかえりよ!」

 と自分はさっさと男湯の片付けに行ってしまった。


 その晩はパパがいろんな事を話したそうにしていたけど、顔を見る事ができなかったの。

 一人で決めちゃった事が、大きすぎてパパにも葉月にも何も言えなくて。

 夜中、急に降った雨はまるで夏に来る台風みたいに大きな音がした。
 寒さは少し緩んでいたから雪にはならなかったけど、朝方まで雨も風も激しく音を立てていて、わたしの心の中まで不安にさせた。


 そんな後ろめたさの中、わたしは自分でもびっくりするくらいの行動力だった。
 調理師の資格を取れる学校を探して、申し込みに行った。

 もちろん、四月からだけど冬が終わったらすぐにそのときはやってくる。
 自分の中で強い決断を迫られている気がした。

 大学を辞める。

 パパとママの思い出がいっぱい詰まっている大学。
 だけど、わたしはわたしの道を行こう。

 そう思う反面、パパの反応を想像するとため息がでる。
悲しむよね。反対するよね。

 でも、わたしはお料理するのが、本当に好きだったんだよね。

 コロッケを作るとき思い出すのは、ママと一緒にゆでたジャガイモを笑いながらつぶしたときの事。
 お野菜を切るときに思い出すのは、ママが教えてくれた『猫の手』

 小さなわたしは、笑い転げて「にゃあにゃあ」声をあげてお手伝いしていたっけ。

 小麦粉をのぞきこんでくしゃみしたら、ママもわたしも粉だらけの顔になっちゃったこと。
今でも思い出すとおかしくなっちゃうな。

 そんなこと、一つ一つ思い出していく。お料理していると思い出すの。
 だからお料理するのは、へたくそだったけどちっともつらくなかった。

キッチンに立っていると、わたしの心の中にいつもママがいたから。
 それから、作ったお料理を(おいしい、おいしい)って食べてくれる人がいる事の嬉しさ。


 それからは、大学の授業にはちゃんと出たけど終わるとすぐに「エーデルワイス」に飛んで行った。
 サトにいは、びっくりしていたけど嬉しそうだった。

「あんまり無理はしちゃだめだよ。パパだって沙友紀がいなくなったらさびしくなっちゃうからさ」
「大丈夫だってば。パパの相手もちゃんとするわよ。お嫁さんに行ってもね、それでもいい?」
 サトにいは、わたしの頭をぐりぐりしてほっぺにキスしてくれた。

 胸の奥に熱い気持ちがむくむくわいてきて、がんばろうって思っちゃったの。
 大好き大好きって言葉があふれ出しそうだった。

「もしも~し、だ~か~ら~、いちゃいちゃするのは外でやってよってこの間から言ってるじゃん。いくら元気だったからって、じいちゃんには刺激が強すぎるからさぁ」
 お決まりの洋ちゃんだ。階段からため息をつきながら降りて来た。

 まだまだ、おじいちゃんは降りて来ない時間なのにね。ふふ、こんなとき必ず現れるのね。
 でもさ、ちょっと安心しちゃうの。ほっぺにキスされちゃってどきどきが止まらなくなりそうだったからね、ふふ。

 それで、わたしは平日も二回くらいはバイトに入る事になった。

あとは土日。厨房は手伝える事は少ないから当分ウェイトレスさん。ファミレスで慣れているからちょっと自信はあるのよね。
 夕食時は本当に混んで大変だった。

 サトにいの近所に住んでいる親戚のおばさんがウェイトレスで来ていて、いよいよ手が足りない助けてって時は、なんと洋ちゃんが手伝いに来る。
 わたしも知らなかったけど、洋ちゃんは客をうまい具合にさばいてく。
お手伝いしているのもびっくりだけど、そんな洋ちゃんを見るのはもっとびっくりだった。


「お疲れ様!沙友紀ちゃん助かったよ、天国のおじいちゃんもこんなおとなになった沙友紀ちゃんを見たら、涙を流して喜ぶだろうねぇ」

 って厨房から、サトにいのおじいちゃんが涙声になって遠くの方を見るような顔して、鼻をすすって笑った。
 
 うちのおじいちゃんとサトにいのおじいちゃんは、すっごく仲が良くて『夢の湯』の前の桜の木の下のベンチでいつも将棋をうっていたっけ。

 二人とも近所じゃ一番二番に強かったらしくて、二人の将棋にはいつのまにか人がたくさん集まっていたの。小さいわたしや洋ちゃんや周りできゃあきゃあ言って遊んでいたのを覚えているな。

 さびしいだろうな、仲良かったから。

 天国に旅たつ人は、たくさんの未練を持って逝くのかもしれないけど、残された人もたくさんの未練や心残りを抱いたまま、それをどう扱っていいかわからなくて、つらい思いをするのよね。
 生きていると突然現れる、今はいない人の影、思い出。交わした言葉。

 そんなものが、あればあるほどつらくて悲しい思いが溢れちゃうよね。

 どうして人は、別れなくちゃならないのだろう。別れは避けて通る事はできないんだろうか。
 ママとの別れ、おじいちゃんとのさよなら。
 おとなになったサトにいのおじいちゃんでさえ、別れはこんなにも辛く悲しいものなのね。


 それからの何週間は、わたしにとってすごく幸せな時が続いた。

 忙しい中で目と目で話すサトにいとの瞬間は、気持ちが通じ合っているって心から思えた。
 ちょっとした会話の中でわたしたちは、気持ちが一つになっていくのがわかった。

 そして、おかしい事に現れるたびに何かを変えて行ってくれたのは洋ちゃんだった。
「沙友紀ってさぁ、な~んでいつまでもサトにいとか言ってんの?恋人同士なんだからもっと違う呼び方したら?サトにいって、おにいさんじゃないだろうがおにいさんじゃ!」
「あれ、そうかな」
 そういえば、みんなサトにいって呼ぶよね。まあ、それでもいいけど結婚したら違う呼び方したほうがいいかな?

「俺は、どっちでもいいよ。名前で呼んでくれると嬉しいかも」
 靖幸って言うのよね。サトにいの名前って。佐藤靖幸。

 そんな風に思った事なかったな。でも、本当にお嫁さんになったら名前で呼びたいな。

「靖幸だからなぁ、やーさんじゃおかしいし、靖さんってなんだか怖そうな感じだよな。やっくんとかか?」
 洋ちゃんは人のことなのに、首をひねって考えている。

「やっくん?えぇ~と靖幸さん?」
 わたしはサトにいに呼びかけてみた。

「やっ、照れちゃうなぁ。まあ、そのうちにね。なんでもいいよ、俺は」
 赤い顔になっているサトにいが、すごく可愛かった。

「靖幸さん!」
 わたしはもう一度呼んでみた。

「けっ!また厨房が火事になりそうなんで俺は帰るわ!あとは二人でよろしくやってよ!あほらし!」
 自分が言い出しておきながら、相変わらず洋ちゃんはあきれた顔してカウベルを鳴らして出て行った。
 わたしもなんだか照れちゃうから、まだ先でもいいかも。

 でもサトにいもわたしも知っているんだ。洋ちゃんはこの間倒れちゃったおじいちゃんの事心配している両親に、今日も元気だったよって報告して帰る事。

 『エーデルワイス』の二階に一人で住んでいるけど、家族の人たちは一緒に住んでほしいのよね。

 だけどサトにいのおじいちゃんは
「店を継がないやつに、この店がどんなに大事なのかわかる訳がない。お前らは自分の事だけ考えてればいいんだ」
 って言って一人で暮らしている。

 お店が大好きだったサトにいは、この店を守りたいなって思ったの。そうして、がんばっておじいちゃんの味継いで行こうって。


 さぁ、土日は大変だぞ~。
 サトにいとがんばらなくっちゃね。
 わたしは自分に気合を入れて、サトにいと別れた。


 この何日か幸せな気持ちと裏腹に、わたしの中に後ろめたさがある。

 パパに言ってない自分で決めた将来のこと。

 大学を辞める事を言い出せないでいる。

 なんて言って切り出そうか、どんな顔するかしら。

 そんなことばっかりが頭の中をぐるぐるまわっている。

 それにそれに、(結婚したい人がいるの)なんて言えるかな?

 たった三人の家族が、ばらばらになっちゃう気がして怖かった。

家族が家族じゃなくなっちゃう訳ないってわかっている。わかっているけど、この家にわたしがいなくなっちゃったら、どうなっちゃうんだろうって。 

 サトにいは急がなくていいんだよって言う。

 だけどわたしは、今大学に行くよりももっと強く思う目標みたいなものができちゃった。
 決してサトにいの事だけじゃない。

 ずっとずっと好きだったの、人がお料理を食べて幸せな顔をしてくれる事。それが家族だけじゃなくて知らない誰かでも。
 そんなことに、気がついちゃったんだものね。

 このままの状態でいられないの。

 夜の風は冷たくて、いよいよ冬本番だって思わせた。
 『夢の湯』の明かりは、まだついていてやわらかくて暖かい幸せなぬくもりを感じた。

 桜の木に手を振って
 土曜日と日曜日は葉月を見守ってやってねって心の中でお願いをした。
 木の枝はもう冬支度をしていて、葉っぱひとつもつけていない枝が大きな手を広げて「まかせなさい」って言っているようだった。


 土曜日、葉月はいつもより元気に見えた。

 パパはお決まりのごとく
「番台に座ってておもしろいのかぁ?それよりみんなで動物園とか行かないか?小さいとき二人とも好きだったじゃないか。ぞうさんとかきりんさんとか」
 って、もう子どもじゃないのに。

「ばっかじゃないの?象なんか見たくないしきりん見てなにが楽しいんだか!」
 相変わらず、パパにはきつい言い方するのよね、葉月は。

「じゃ、映画見に行かないか?今、おもしろそうなやつやってるぞ!ポップコーン買ってやるよ、ビックサイズ」
 なんとしても、めげずに誘うねパパは、感心しちゃうわ。

「あ・の・ね、おばあちゃんのお手伝いに行くの!ボイラー室のおじさんは番台上がれないでしょ!人手不足なの!パパも手伝いに行ったら?あ!いい。行かなくていい!」
 パパの弟のおじさんは、後を継いでいるって言うのかな。しっかり運営させているよ『夢の湯』。

 パパは大学出てから、すぐにママと結婚しちゃったからお給料のいい会社に勤めたんだったよね。
「ママと結婚するために。ママを幸せにするために」パパの口癖。
 でもね、今は?今はわたしたちのために、がんばっているの?

 パパの事を考えると、何も言えなくなる。

 だけど、そんなパパに
「パパ、一人で映画でも動物園でも行ってくれば?まったく、うざいったら!」
 ひどいわ、葉月。

「葉月!そんな言い方しないのよ!とにかく、なんでも社会勉強にはなるんだからさ、パパ」
 そう言って、わたしもサトにいのところに喜んで出かけていくんだ。
 胸の奥が痛む。

 中学二年生って、どんなだったかなぁ。

 わたしの中学時代って忙しくて、あんまり覚えがない。

 小学生になった葉月は、急に人前で笑わなくなっちゃったし、家の事覚えてこなしているのが精一杯だったから。
 今みたいに余裕もなかったし、いろんな事考える暇もなかったっていうのが正直なところだ。

 それでも、葉月がちゃんと中学生になったって事は、わたしもがんばったってことみたいで嬉しい事の一つなんだけど。


 その晩、「エーデルワイス」の帰りにおばあちゃんに聞いたら、なかなか葉月は愛想よく番台に座ってくれて助かったって言っていた。わたしも、ちょっと安心。

 家に帰るとリビングで大の字になって、偉そうにしていた葉月。それでも食後の後片付けを手伝ってくれた。
「どうだった?番台に長く座っているのって疲れるでしょう?」
 わたしの横で泡だらけの食器をさっさと流してく。
 あらま、手際いいじゃないの葉月。

「うん、そうでもないよ。最初の頃は恥ずかしくて顔を見られなかったけど、最近じゃにっこり笑顔にもなれたし。なんて言ったって黒髪の美少女、メガネつきだからね」
 ああ、そうだった。ヘァウィッグつけてメガネかけているんだった。なんだろうなぁ。

 でも、笑えるって事は、この子にとって進歩かもしれないわね。おばあちゃんの作戦としては今のところ成功って訳だ。

「そうそう、おじいちゃんの夢見ちゃったよ。番台に座ってるときにさ。あたし居眠りしてたのかよくわかんないんだけどさ」
 あれ、そんなことわたしもあったような気がする。

「昔の銭湯の夢も見たよ。ってあたし、居眠りしっぱなしかっつうの!でもね、昔の銭湯っていい感じだったんだ。たくさん人がいてさ、みんなお友だちって感じでさ。和気あいあいってこんな事いうのかなってね」
 あれれそれ、この間のわたしにもあったかも。

「小さい頃、よく銭湯で遊んだんだよ。葉月は覚えてないかもしれないけどね」
 葉月は、身体をくねらせて泡のついた手をのばした。
「あー、覚えてないよー。おとなになっても銭湯で遊びたいなぁ」
 ふわっと泡が葉月の鼻の頭にとんだ。

「そうだ、陸上部の先輩が来てさ、あせっちゃったのなんのって。やばかったな、ありゃ!」
 泡をふいてあげる。今日の葉月は明るい、それから楽しそう。

「良かったよ。番台から脱衣所見えなくなっててさぁ、男子なんだよ、男子。おとこのこ!きゃ!」
 ついでに、かわいい。
 
 その日は、とってもゆったりした気持ちでベッドに入った。
 葉月の嬉しそうな顔が、わたしの中で揺れていた。

 あんな顔見たのはいつ以来だろう?もう、ずっとずっと見ていない気がする。

 なんだか、いつもよりおしゃべりの葉月は小さい頃の葉月を思い出させて胸が締め付けられるようだった。
 
 その晩、わたしは昔の夢を見た。

 幼い葉月の手を握っていた。震えながら葉月の手を力いっぱい握り締めていて、葉月は「いたいよ~」と言って泣き顔で振り払う。

 だけど、わたしは葉月の手を握っていなくちゃいけない気がして、今度はやさしく手をとった。

 それはママの病室の前の廊下で、消毒の匂いが鼻をついて気持ち悪くなっていた記憶。

 病室に通されたわたしたちは、とってもきれいな顔をしてベッドに横になっているママを見た。

 少しだけ、目を開けてママがゆっくり手を伸ばした。

 そばにいたおばあちゃんが、あわててその手にわたしたちの手を握らせた。

 力なくにぎるママの手はあったかくて、わたしはこれから起こることの不安に押しつぶされそうになっていた。
「さゆきに、たくさん楽しい事ありますように。はづきとパパと仲良くね」
 ママはわたしに静かに力なく、そう笑った。

「やだよぉ、ママ、あそぼうよ~」
 葉月は、パパに抱っこされるとむすっとした顔をしたけど、お気に入りのおじいちゃんが顔をだすとにっこりと微笑んだ。その笑顔は誰の気持ちも幸せにする表情だった。そこにいたみんなが、微笑んじゃうくらいかわいらしかった。

 それから、おじいちゃんの葬儀に泣いている葉月。わたしの手を振りほどいてぎゅっと下唇をかみしめて怒った顔で涙を拭いていた。

 小さな葉月はまだ幼稚園生くらいなのに、泣く事をやめた。
 そんな葉月を見てるいのが、辛くてわたしはおばあちゃんのそばで泣いていた。


 夢から目覚めて、悲しくなったの。

 なんでそんな昔の悲しい思い出がでてくるのだろうって。思い出したくない、悲しい辛い心の中に閉じ込めておいたワンシーン。
 あの時のママが、わたしの中で覚えている最後のママの笑顔。

 そして、最後の言葉。

 辛くて悲しくてどうしていいかわかんなかったの。泣き止まない葉月をおじいちゃんが連れて行って優しく頭をなでていた。
「これからは、ママみたいにおじいちゃんがいつも葉月のそばにいるからねぇ。さびしくなんかないよ」

 葉月の大好きなおじいちゃんは、それからいつでも葉月と遊んであげていたんだよね。いつのまにか葉月は笑顔を取り戻していたの。
 わたしは、いつまでもママの写真を見るたび涙がでちゃったのに。


 それから二年もたたないうちに、おじいちゃんも天国に行っちゃうなんて誰が想像していただろう。
「あの世にいくときゃ、ぽっくりがいいねぇ」なんていつも口癖のように言っていたおじいちゃん。
 本当に、ぽっくり天国に行っちゃったの。

 毎日毎日元気いっぱいだったから、みんな信じられなかったけど。

一番信じられなかったのは葉月だったんだと思う。

 元気いっぱいで葉月と毎日、『夢の湯』で遊んだり一緒に番台に座ったり、『夢の湯』は葉月のお気に入りの場所だったのよね。

 そうして、葉月は泣かなくなった。笑わなくなった。友だちも作らなかった。いつも一人を好むようになっちゃった。

 小さな葉月には、おじいちゃんがいなくなった事がまるで裏切られた事のように感じちゃったのかもしれないと、今は思っている。
 わたしが中学生のころはそんな葉月の事が理解できなかったし、わたしだって寂しいんだよ大変なんだよって思っていたからな。
 中学生になった葉月を見て、最近ようやくそんな風に思えるんだものね。わたしも子どもだったんだわね、きっと。
 それから、わたしには中学生の頃からなんでも、わたしの気持ち聞いてくれたサトにいがいたものね。三つしか年上じゃないのに、人生相談ばっかりしていたわたし。

 サトにいは、すごくおとなに感じていた。わたしは、サトにいに甘えられた。
 だからわたしは、寂しさを超えられたのかもしれない。

 きっときっと、葉月にとってわたしがその役をしなくちゃいけなかったのかなって、後ろめたい気持ちでいっぱいになる事もある。
 でも、いつかわたしは家を出る。そう決心した。

だけど、だけどな、葉月が今のままじゃ無理だよね。また、頭の中で同じ事の繰り返し。
 そして最後は、パパに何も言えないまま毎日が過ぎてゆく。



「いつまでも悩んでたって、変わらないよ。動いてみなくちゃ、動いてみたら何かが変わるかもしれないだろ?」
 サトにいが玉ねぎを切りながら、トントンと軽快な音をさせて言った。

 わたしだけが、こんなに幸せでいいのかな。
 パパにも葉月にも、悪い事しているみたいに感じる。

 その日も、いそがしかったけどチームワーク良くお客さんをさばいて店じまいになった。
「いいねぇ、沙友紀ちゃん本当に靖幸のお嫁さんになって店、継いでくれるのかい?」

 わたしが、サトにいのおじいちゃんをなんて呼ぼうか考えていると、サトにいが気がついて言った。
「シェフだよ、沙友紀。一応、シェフと従業員だからね。俺がこの店継がなかったら、もうビーフシチュー食べられなくなっちゃうぜ。あと、オムライスもさ。困るだろ?」
 わたしは、サトにいをにらみつけて言った。

「ひどい!おどすなんて!シェフ~脅されちゃいました~」
 ペロッと舌をだしてサトにい、小さい子みたいに
「だって、ほんとのことだもん!」

 シェフも
「だってほんとのことだもん、か!ははは!沙友紀ちゃんのおじいちゃんが生きていたらどんなに喜んだかねぇ」
 いろんなところに、おじいちゃんは出没するね。いろんな人に好かれていたんだよね。

 おじいちゃんは、今のわたしを見てどう思うかしら。
 今の葉月をどう感じるかしら。

 その晩今年一番の寒さがやってきた。
 風は真冬の匂いがして、凍えてマフラーを頬まで引き上げた。




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